はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。
この言葉ははじめに神と共にあった。
全てのものは言葉により生まれ、一つとしてこれによらないものはなかった。
言葉の内に命があった。命は人の光であった。
光は闇の中で瞬いた。


闇は、光を理解しなかった。



< 世 界 は 光 で 満 ち て い る か >



「すみません。手間をかけます」
 礼儀正しくヨシュアは頭を下げた。他の仲間に目がつかないであろう森の中、木漏れ日がやわらかく黒髪に降り注いでいる。ケビンは気さくに笑って手を振った。
「気にせえへんでいいって。準備するからな、少し待ったってや」
 ハーケン門に帝国軍が押し寄せた事件の後、ヨシュアの頼みを全面的に呑んだケビンの持っている鞄は儀式用の荷物で膨らんでいる。その鞄を地面に下ろすと、すぐに手際よく準備を始めた。
 黒髪の少年は黙って木の根元に腰を下ろす。手だけは休めぬまま、ケビンはそんな彼をちらりと盗み見た。
 ヨシュア・アストレイ、ハーメルの孤児。この濡れたような黒髪と透明感のある琥珀の瞳をした少年については様々なことを聞き、そして調べ上げていた。ハーメルの悲劇の後に結社に入り、対集団戦を得意とした漆黒の牙。白面の思惑によりカシウスの元へやられ、ひとりの少女と出会うことにより幸福な生活を送るが、5年後に少女の下を去る。白面の計画を阻止するという途方もない目的の為に。
 ――そしてつい先日、少女の下へと帰ってきた、闇を抱えた少年。
 実際に見てみると、そんな過去を持っているとは思えない程に穏やかで涼やかな少年だった。もしかしたら、少女と再び出会うことで何か吹っ切れたのかもしれない。
 確かにあの少女は不思議な魅力を持っていると思う。決して絶世の美人というわけでもないのに人を惹きつけ、明るく照らす、それこそ太陽のような。人の瞳に光を取り戻させる、そんな力があの少女にはあるのかもしれない。
「それにしたって、随分な無茶したなあ。オレだったらあんな計画一人でどうにかしようなんてまず考えつかへんかったけど」
「――ええ。確かにそうですね、自分でも馬鹿だったと思います」
 ヨシュアは苦笑して腕をさするようにした。生い茂る木々の中、彼はしばらくそうして周囲の草むらに視線をさまよわせていたが、不意に顔をあげてぽつりと呟いた。
「ケビンさん。僕の独り言を聞いてくれますか」
 そんな言葉を耳にして、ケビンは手を止めて目を瞬く。珍しい、きっと本心では自分のことを警戒しているのだろうにこんなことを言い出すなんて。否――これは彼なりに自分に探りを入れようとしているのか。
 だが思考を巡らせる内心とは裏腹に、ケビンはぱちりと片目を瞑って親指を立てた。
「ああ、懺悔かい? ええよ、腐っても神父やからな、いくらでも話ならきいたるで。男同士の話題でもどんとこいや」
 歯を見せて笑うケビンにヨシュアはくすりと零れるような笑みを漏らして、大した話ではないのですけれど、と続けた。
 木漏れ日が降り注いでいる。風はない。リベールの空気はケビンの故郷とはまた違って清らかだ。初めて足を踏み入れたとき、良い国だと素直に思えた。だから、そのまばゆさがケビンにとっては少し目に痛かった。そして、目の前にいる少年も――また。
 琥珀の目をした少年は、少しの沈黙の後にゆっくりと口を開いた。
「まだ、僕が何もわかっていなかった頃。僕の腕の刻印に僕が縛られていた頃」
 そうして指で落ち葉に埋まった大地をゆっくりと撫でるようにする。罪の刻印。ふとその言葉が思い浮かび胸に落ちて、微かに目をそばめた。
「僕は、僕が犯したことに囚われていつも世界を見上げることしか出来ませんでした。輝いているエステルや、皆、皆。全ての存在が、あまりに眩しすぎて」
 相槌を打つように頷いてやる。この少年が何を思ってそんな話を始めたのかは知らないが、聞いている分に不都合はあるまい。
 そう思って聞いていると、彼の言葉にほんの僅かに喉の奥が鳴った。彼は多分、自分と同じだったのだろう。空に瞬く星が届かないことを知っていて、それでも一人で見上げて、手を伸ばして。
「僕は決してそちら側にいけないのだと、信じ込んでいました。僕には決して届かないのだと」
 とつとつと語るヨシュアの顔は穏やかで、その口元には笑みすら浮かんでいた。ケビンは黙ってその様子を眺める。そう、彼は信じ込んで『いた』。もう今は違うのだ。今の彼は、まるで太陽に照らされて輝く星のようにきらきらと煌いて。
 もう、自分とは遠い存在だ。
 ふと自分の眺める世界がまた一つ遠のいた気がして、内心で自嘲気味に笑った。そうする自分に更に笑いがこみあげる。この少年と違って、自分は何処までも救いようがない。
「だから、僕はもう消えてしまいたかったのかもしれない。自分を省みることをやめて、一人で走って、一人で戦って、そして一人で果てる――、僕はきっと何処かでそれを望んでいたんでしょう。本当に、馬鹿でした」
 同感だ、とケビンは心の中で呟いた。罪の贖いをする為に、自分で勝手に罰の設定をして、勝手にそれをこなす。なんて馬鹿げた自己満足だろう。しかし――しかし。
 そうせずにいられないのだろう、人間の心は。
 心は勝手に自分を保とうとする。例えそれが歪んだ形であっても、自分を守る為ならどんな屈折した感情だろうと取り込んでいく。
 そうして体は呼吸を続け、心臓の鼓動は止まず、自分の存在はそこにあり続ける。
 なんて醜い。
 そう、思ったのはいつだったか。
「そうやね、確かにオレもそれは馬鹿だと思うわ。でも誰もそれを責めることは出来へんよ。人の心はどう繕ってもそう強くはなれへんからなあ」
 呟きながらふと空を見上げた。木々の向こうには穏やかな青色が優しく広がる。ヨシュアもまた空を見上げていた。その瞳にはどう世界が映っているのだろうか。このあまりに眩しい世界を、彼はどう感じているのだろうか。
 少年は琥珀色の瞳で、不意にこちらを見た。
「ケビンさん」
 その色の濃さに若干の意表をつかれてどきりとする。少年の声は呟きというにはよく響き、かといって大声というわけでもなかった。灰色の空、絶望の味、けぶる空気とむせるような血の臭いを自分と同じように経験してきた筈の少年は、こちらの瞳をひたと見据えて、そして言った。
「世界は光で満ちていると思いますか」
「――」
 とっさに言葉が出てこなくて、思いの外慌てる自分がいた。少年の質問の意味が解せず、混乱した顔はきっと外にもでてしまったろう。
「な――なんや、突然話がえらい大きくなったなあ」
 ぎりぎりのところで、かろうじて喉はそう紡いでくれた。少年は、やわらかく笑ってすみません、と目を伏せる。
「僕は昔、そう思っていたんですよ。世界はこれ以上ないくらいに光り輝いてるんだって」
 ヨシュアの話の意図が掴めずに、ケビンは黙って先を促した。心の隅がざわめいていることには、気付かないふりをして。
 琥珀の瞳をした少年は、そんな自分を一体何処まで見抜いているのかと考えて、そして考えることをやめる。また、息苦しさを感じて目を背ける。
 ふと思い出したように風が吹き抜けた。心を洗う優しい風だ。木々が揺れて、きらきらと木漏れ日も揺れていた。そうだ、確かに世界は光に満ちている。
「光は輝く程に深い影を作ります。そして僕はその影なのだと。僕は汚れた存在なのだと。世界は光で満ちているからこそ、その裏の闇に僕はいるべきだと思っていました」
 穏やかに語る少年を眺めながら、彼が見てきた光景を夢想した。
 まぶしい世界に目を細めながら。
 自分はもうそこに行けないのだと呟いて。
 自分に与えられるべき光などないのだと呟いて。
 救いを求めているはずなのに、自らその手を振り払って。
 こんな心など壊れてしまえと思いながらも、壊れてしまうことが出来なかった。
「でも僕は、今はそうではないと思うんです」
 ――この少年は。
 この少年は、確かに自分によく似ていた。
 しかしあの少女に出会って、その心を救われて。
 今は、こんなにも真っ直ぐに前を向いて、その足で立っている。
 自分などにそんな奇跡が起きるわけがないと、そんなことは分かっていた。
 けれど、それでもそんな彼が。
 自分にとっては、何よりも何よりも眩しく見える。
「世界は、きっと闇に満ちているんだと」
 胸を満たす想いを無視して、彼を見た。
 彼はもう、『こちら』にはいない。
「なんや、光やないんかい」
「今までに色んな経験をして思ったんです。絶望なんていつでも隣にある。悲劇ですらいつでも後ろから追ってくる。それは誰であっても変わらないんじゃないでしょうか――例えそれがどんなに輝いて見える人であっても」
 つきん、とその言葉は氷の棘のように心に刺さった。
「だからこそ、人は輝こうとするんじゃないかって。闇の中で、闇に呑まれるのを恐れて、光になろうとするんじゃないかって。僕は闇の中で膝を抱えているばかりだったから――、そんな光を眩しがるだけだったんです。誰もが恐れながら輝いていることも知らずに」
 ざわめきを隠そうと腕を組んで考えるそぶりをする。分かっている、分かっている――彼の言いたいことなど。自らの闇に溺れて、膝を抱えて罰を受け、空を見上げてばかりいることなど怠慢でしかないのだろう。自分はきっと何もしていない。あの日から、あの場所から、一歩たりとも歩いてはいない。
 けれど、しかし。
「――すみません、こんな話を教会の人にしたら怒られますね。女神が造った世界が闇で満ちてるなんて」
 少年は笑う。きらきら、きらきらと。
 諦めてしまった自分は、やはり彼を見上げるしかない。
 だから、適当に言葉を濁してごまかした。また、目を背けて膝を抱えた。あの日、あの人に会った日のように。
 そして、あの日の救いはもう二度と得られないのだと言い聞かす。今の自らの世界にあるのは、途方も知れない罰の数々。
 少年の言うことはきっと正しい。けれど、自分の見る世界ではそれは間違いでなければならないのだろう。きっと世界は光で満ちているのだ。そして自分はその影の闇にいるのだと思う。
 自分に、救いの道などあってはならないのだから。
 だから、少年の声など心に響く筈もない。
 さあ。体よ動け。思考よ廻れ。自らのあるべき姿をとるが為に。自らの望む世界をなし得るが為に。
「さ、準備できたで。ちょっと手荒にいくからな、覚悟せえよ」
「はい、よろしくお願いします」
 空は高く澄み渡って、世界を今日も太陽が照らし続ける。
 この地はあまりに光に溢れすぎた、己を焼き尽くす灼熱の煉獄。
 そこに自らが飲まれていく姿は、あまりに優美な情景で。
 闇を求めて、この体は大地を這い回るのだろう、これまでも、これからも。


 光は闇の中で瞬いている。
 闇は、まだ光を理解しない。







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/冒頭はヨハネによる福音書より。