僕が今ここにいるという奇跡

それだけで僕はきっと幸せなのだと思うんです


<幸福論>


「んがーっ、アタシの酒が飲めないっていうのお!?」
「きゅー!?」
 びたーんっ、と豪快に大理石の床に伏したのは、『不動のジン』で名をしらしめたジン本人であった。巨体であるから、地響きのようなものまで巻き起こる。
 そんな『不動』のジンをも地にひれ伏させた張本人シェラザードは、不機嫌そうに鼻をならすと再び酒を煽った。完璧にタガが外れてしまっていた。
「あーあー、ジンさん可愛そうに」
 食後のアイスクリームのスプーンをを未練深く口にくわえていたエステルは思わずシェラザードの被害者を哀れんで溜め息をつく。
 ちなみに、そんな哀れなジンには即座にクローゼが介抱に走った。シェラザードも流石にクローゼにまで絡む気はないらしい。一人で酒をグラスにつぐと、またぐびぐびと飲み始める。
 ――生誕祭の夜のことであった。
 一言では言い表せないような大きな事件が解決し、エステルを含め戦いに加わった人々はその夜、王宮にまねかれて食事会をすることになったのだ。
 そこにはエステルたちが旅で出会った様々な面々が参加し、いつかの王宮での夕食とは全く違った賑やかな食卓があった。

「おお、シードじゃないか!」
「お久しぶりです、カシウス様」
「わはは、相変わらず幸薄そうな顔をしているな!」
「……お変わりないですね、貴方も」

 そんな会話を元部下としていたエステルの父カシウスは、そのまま部下たちと随分話し込んでいた気がする。
 今はその姿も消えていた。若者たちが騒ぎ出したから、奥のバーにでも行ったのだろう。
 そう、夜の食事会も終わって、場は見事なまでの酒飲み大会会場と化していたのだ。
 もちろん、アリシア女王には早々に女王宮にお帰り頂いた。さすがにこの場を女王に見せるわけにはいかない、とのヨシュアの判断による。
「なんだよ、お前」
「……」
 壊れている仲間を横目に配られたアイスクリームを口にしていたアガットの横で、じっと見つめるのはティータであった。
 もう彼女自身のものは食べてしまったようで、だけれどまだ物足りない様子でおずおずと上目遣いで見上げてくる。
 昼にも随分菓子を食べていたと思ったが、やはりこのくらいの歳の少女にとって甘いものは別腹らしい。
「……」
「……」
 にらみ合い、数秒。
「……やる」
「えっ、い、いいんですか?」
「オレは甘いものが嫌いなんだよ!」
「あっ……あぅ、ありがとうございますっ」
 綺麗な器に入ったアイスクリームに目を輝かせながら、ティータは笑った。これにはアガットも笑みをこらえるのに必死な様子だ。
「ふっ、場も和んできたところでボクがナイスでハイセンスな一曲を提供しよう。名付けて――がふっ!?」
 ごいーん、と景気のいい音でしゃしゃりでてきたオリビエはその場に没した。
「うふふ、いい音ねえ」
 酒の空き瓶を片手にシェラザードが天使のごとき笑みを浮かべる。
 そのままオリビエの胸倉を掴んで同じ目の高さまで持ち上げた。
「ねーえオリビエ、ジンってばすぐに倒れちゃったのお。やっぱアンタでなきゃ酒の相手は務まらないわあ」
「シェ、シェラ君! 話せば解る、落ち着こう、落ち着こうよっ、ほらボクの曲でも一曲聞いて……ひっ!?」
「んふふ〜〜」
 シェラザードが新たに酒瓶を取り出したのに、オリビエの顔がひきつる。
「あああ〜〜、ボクの華麗なるショータイムがー!」
 オリビエは連れていかれてしまった。
「……はあ、シェラ姉ってばいつになく出来上がってる」
「きっと皆、明日には大変なことになってるね」
 ヨシュアも苦笑して、辺りの惨状を眺める。
 既にエルナンはシェラザードの毒牙にかかって無残な姿をさらしていた。カルナもカルナで完全に出来上がってしまっていて、男衆をひきずり町の酒場にでていってしまった。きっと向こうでも今は大変なことになっているだろう。
「……」
 ぼんやりとヨシュアはそんな状況を一周眺めると、ほんの少し目を伏せる。
 あまりにその光景が輝いているように思えたから。
 それが、ほんの少し眩しすぎるように思えたから。
「ヨシュア?」
「え?」
 だからだ、きっと。
 エステルが顔を覗き込んでいるのに、気付かないなんて。
「また考え事してる」
 エステルは少し不機嫌そうに手を伸ばした。ふにっ、とヨシュアの頬をつねる。
「痛いよ、エステル」
「そ、そりゃ色々と緊張することだってあるし、まだまだ解決してない問題だってあるわよ? でも、今くらいは笑ったっていいじゃない」
 焦燥と不機嫌さ。そんなものを併せ持って、エステルは頬をふくらませた。
 辺りではそれぞれの人間が、それぞれの今を過ごしている。
 それぞれの過去を持って、それぞれの未来へ。
 笑って、泣いて、怒って。
 それが人の歩く道。人の描く軌跡。
「うん……ちょっと、君が言ったことを考えてた」
「えっ?」
 ぼんっ、とエステルの顔が赤くなったのは、なんとなく予想はつく。予想がついてしまう自分が、どうにもやるせない。
 けれど考えていたことはまた別のことだった。

「奇跡だな、って」

 言葉というものは不思議なものだ。
 彼女がそれを口にしたときは、まるで宝石のような言葉に思えたのに、自分の口からでたそれは、単なる音の振動にすぎない。
「奇跡を起こすのは、難しいことじゃない。人が、たくさんの人がこの世界にいるから、きっと奇跡だってまた起こっていくんだね」
 そして今の自分は、その奇跡の中にいる。
 目を閉じて、空気を感じようとした。今のこの空気を、心に焼き付けるように。
「でも、僕が今ここにいることだって、ありえないような奇跡で」
 穏やかに笑えたと思った。
 それくらいに、心が落ち着いていたのだから。
「何か一つ欠けていても、今、僕はここにいなかったんだな、って」
 言葉が優しいということは、彼女から教わった。
 言葉に力があるということも、彼女から教わった。
 だから、自分は。この、呪われた己の体は。
「僕は幸福なんだね、きっと」
「……当たり前よ」
 隣の椅子に座った少女は、また、幸せそうに笑った。
「生きている人たちには皆、幸せになろうとする権利があるんだよ。そうして、幸せになって喜ぶ権利があるんだよ」
 だから、喜びなさい、と。
 少女は、背中を叩いてくれた。
 ああ、幸福なのだ。
 救いようもない、なのに救いを求めていた愚かしいこの体は。
 数多の奇跡の中で、また愚かしく笑っていたのだ。

「ちょっとお酒に酔っちゃったな。少し風にあたってくるよ」
 ヨシュアは席を立って、そう告げた。
「え、そう? 顔、赤くないけど」
「あまり顔にでないみたいだね」
 そう言うと、エステルはその言葉を信じこんで、いってらっしゃい、と手を振ってくれる。
 またあとで、と。
 そう言うと、ヨシュアは部屋を後にした。

 ――彼が酒を一滴たりとも口にしていないとエステルが気付いたのは、それからしばらくしてからのことだった。


 ***


 風が吹き込んだ。
 あまりに穏やかで、空へと舞い上がってはかすかに泣いている風の音。
 だがそんな音を、彼女は聞く間もなく。
 ハーモニカで呼び出されて空中庭園で崩れ落ちた少女を、風邪をひかないようにと彼は誰も使っていない部屋に運んだ。
 ベッドに寝かせてやって、使い古したハーモニカを枕元に置く。
「……生きている人たちには皆、幸せになろうとする権利がある。だから、人々は生きていく」
 少女が言った言葉を繰り返して、その少女の目じりに溜まった涙をそっと拭ってやった。
「僕は、君といたこの5年間だけ、ちゃんと生きていたよ」
 拙い幸福を願って。束の間の幸福を願い続けて。
 いくら否定したところで、求める心は変わりなくて。
 彼岸と此岸を行き来する、不安定な体を抱えたまま、それでも生きていた。
「でもね、エステル」
 一瞬だけ、泣き笑いのような、そんな表情を浮かべて。
 全てがあったから、自分はそこにいることができた。
 何か一つ欠けているだけで、もうその場にはいられなかった。
 そうして、今。
「いつでも起こるわけじゃないから、奇跡は奇跡というんだよ」

 ――行かないで
 ――ありがとう、エステル

 あのときに、もう彼女には笑顔を見せたのだから。
「僕は、幸せだよ。これ以上ないくらいに」
 述べる言葉は残り僅か。
 ただ、その表情に憂いと苦痛を乗せて。
「もう、求める必要もないくらいに」
 彼女のような、宝石のような言葉にはならないけれども、せめて。
 せめて、星の瞬きほどの光になってくれるなら。
「さようなら。君の傷を、どうか時と女神が癒してくれるよう」
 きっと彼女は泣くだろう。
 次の朝が来たときに、たった一人で泣くのだろう。
 だけれど、きっとその陽が高いところに来るときには、笑っているだろうから。
 このままではいけない、と笑っているのだろうから。それが彼女なのだから。
「僕は、これから生きることを、求めることを――やめるよ」

 輝く軌跡は、もう終わり。

 例え死してもこの魂は、あのときの光を覚えているだろうから。


 ――それで、十分。





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/ヨシュアはある意味おバカさんだから、彼一人で完結してしまうところがあるんじゃないかなあと思うのです。
彼はあの時に幸せだった。だから、彼はそれで満ち足りてしまった。
――たった一度でも幸せだと呼べる時があったのならその人生は幸せなんだ、と白き魔女でラップさんが言ってましたけれど。
だから次はエステルの物語なんだと思うんです。彼女は全然完結してない。セーカーンードーシーーズーンーはーやーくーでーろー(血)