『机に落書きをするのはご遠慮下さい』
 ヘイルマンはぼんやりとそんな置き札を眺めつつ、酒をちびちび舐めていた。ちらっと周囲に目をやれば、煌々と輝く照明の下、騒がしい居酒屋の盛況ぶりが窺える。騒音など全く気にもしていないような喚き声での会話。誰かが一芸を披露し、どっと笑う人々。カウンター向こうからは質の悪い音で明るい音楽がかきならされている。
 やはり人の生きる場所はこうでなくてはな、と彼は微かに笑った。

 ヘイルマンはグラーシア学園高等院の講師であった。グラーシア学園で教鞭をとる者は大きく二つに分かれる。一つは己の研究室を持ち、高等院の生徒を所属させる教授たち。そして、もう一つはヘイルマンのようにクラスの担任を受け持ち、生徒たちの生活にも気を配る講師と呼ばれる教師たちである。
 これだけみると、地位を向上させる為には論文などが提出できる教授の方が有利に見える。しかし、講師にも己の名誉をあげる為の研究活動が許されていた。学園から研究費もでるし、学園外の研究施設に同時所属することも出来るから、講師だからといって出世への道が断たれるというわけではない。
 講師からの出世例を考えたときに最も先に思い浮かぶのは、現学園長のフェレイ・ヴァレナスである。彼は元々、グラーシア学園高等院の講師であったが、その才能をあらゆる方面から認められて理事会に入り、現在の地位まで上り詰めたのだ。
 だが、晩年平講師と影で揶揄されるヘイルマンにとってそんなのは雲の上の話でしかなかった。グラーシア学園では前学園長オーベル老の改革によって年功序列の制度が取り払われ、故に才を認められぬ限り一生地位が向上することはない。その為に、あまりに若すぎると言われた現学園長の就任の横で、それより年上のヘイルマンは日々歓楽街で飲んだくれているわけなのだ。
「まー、あれは別格だ」
 たぷたぷ肉のついた頬をしかめて、ヘイルマンは一人ごちながら琥珀色の液体の入ったグラスを傾けた。あの学園長には、ずるでもしてるんじゃないかと思えるくらいに抜群の才能がある。おっとりしているように見えて、緊急時などは妙な迫力を見せるときがあるし、何よりも仲間に恵まれている。片腕のように動く聡明なライラック理事長を始め、学園長を慕う者は多い上、後ろ盾にはオーベル老がついているときた。
 だが出世に興味のない平講師ヘイルマンはそんな学園長に好感も反感も持ってはいなかった。なんせ、こんな負け犬が何を吠えたところでただの遠吠えだ。尊敬しても反発しても空しくなるだけである。

 世界に名だたる学者の聖域、学術都市グラーシア。学問というものはそもそも高潔な意志と清い精神によって培われ云々、とか潔癖としか思えない理想をこの地では掲げている為、都市内の無闇な娯楽施設の配置は規制されている。飲まなきゃやってらんない時もあるじゃないかよ、とヘイルマンは常々思うのだが、そう考える者はやはり多いらしく、こうしてこの都市の外れの歓楽街はここまで発展するに至った。人間の習性を考えれば、ごく自然な流れである。実際、都市では歓楽街を利用しない大人の方が少ないだろう。
 賑やかな行きつけの飲み屋は、騒ぐ若者やらお互いの理論について激しく論争する研究者たちの抗弁がわんわんと反響し、なんとも力に溢れている。普段の都市が静かなだけに、逆に心が落ち着くのをヘイルマンは感じていた。人間というものはこうでなければ。
 ちなみにここに来るのは学者が大半であり、酒を飲んでいたかと思うと何かをひらめいて机に突然ペンで算術式を書きなぐる連中が複数いる為に『机に落書きをするのはご遠慮下さい』なんて注意書きが貼られることになるのである。本当にヤバい奴になると、家の壁にまでメモをとりだすから、それに比べれば可愛いものだが、店員も必死なのだろう。
 一時期は、対策の一つとして店内にメモ用紙を置くという試みもやっていたが、学者によってはメモに何か書いてはぽいぽい床に捨てるわ、客同士の論争が白熱しすぎて子供じみた口論になった挙句、お互いにメモ用紙を丸めて投げ合うなんて珍事も起こって五日も経たずに取りやめになった。
 だがヘイルマンはそれよりも隣の席でメモ用紙を酒に浸して灰皿の上で燃しては『ふふっ、ちょっと炎の黄色味が強いってことは添加物にペルゼルでも入れてるのかしらねクックック』とかぶつぶつ呟いていた科学者風の女の方がよっぽど怖かったのだが。

 ほろ酔い程度に酒を頂き、良い気分で店を出たヘイルマンは外套のポケットに手を突っ込んでふらふらと歩きだした。明日も授業があるため、そう長居はしていられないが、歓楽街を一周ぶらつくのは彼の日課でもある。どやどやと騒々しい人の波に埋もれていると、面白い話が聞こえてくることもあるし、何よりも酔いを醒ましながら人間たちの脈動を感じるのが心地よかった。
 そうそう、そういえば今日の酒場で会った男は何者だったのだろう。小熊のように太った体躯をゆするようにして歩きながら、ヘイルマンは考えた。先ほど酒場で飲んでいる途中、隣に座った奇妙な男が突然話しかけてきたのだ。だが彼の話は与太もいいところだった。その乞食のように痩せた男が言うには、今年の編入生は人間ではないだとか危険だとか――根も葉もないことばかりを言い募るのだ。
 確かに、春に編入してきた少年は、目が覚めるような紫色の髪と瞳という珍しい容姿、そして教師陣の間でも噂になるような才能の持ち主であった。が、稀少なことに、この学園の秀才によくある高慢さがない生徒だったと、薄ぼんやりと覚えている。まあ、そのせいで敵を作ることもままあるのだろうが――。
 仮にも自分の勤める学園の生徒を化け物扱いされるのは、例え晩年平教員のヘイルマンでも良い気分はしなかった。
 このままでは大変なことになる――。男の奇妙に真剣な声を、ヘイルマンは右から左へと聞き流した。何の恨みがあるが知ったことではないが、そこまで言うことはないではないか。彼にも色々あるんだろうよいや話したこともねえけど、と半ば酔っぱらった頭で適当に返事をしていたら、男も諦めて去っていった。
「報告した方がいいかなー」
 喧噪の中でぼやく。グラーシアの生徒の風評を害する話を言いまわっているようなら、学園に報告した方がいい。いや、もしもそれが一般的なグラーシアの生徒についてだったら、一笑に付してしまえばいいのだが……。
 組織の中での個人程、弱いものはない。出世も望まず、のんびりと時を過ごしてきたヘイルマンだったが、その事実は身に濃く染みていた。大きな組織は、己の形を守るが為に、内なる異質なものを排斥する。もしもあの編入生個人においての悪い噂が広まれば、学園内の強硬派は迷わず彼を追い出しにかかるだろう。出た杭は叩かれるものだ。彼らが必要としているのは、抜きんでた天才を生む波乱ではなく、それなりに出来る秀才を排出する変わらぬ平穏なのだから。
 学問の独立と銘打ったところで、そこにいるのは人間だ。組織の内にある限りは完全な自由などありえないし、裏には様々な人間の想いがひしめいている。最高学府を名乗り、その名誉を守ろうとするこの地では、特に。だから、人並み外れた勉学の才だけでは、逆に自らの身を滅ぼすこともある。
「天才も辛いねー」
 あの編入生が学園を追い出されたところでヘイルマンにとっては痛くも痒くもないのだが、可哀そうだな、と思う気持ちはあった。天才と言われども、まだ、たった16歳の少年なのだ。いや、面識は全くないのだが。
 それに危険、化け物――そう言ったあの男の目はどこか異様だった。とりあえず、機会があったらライラック理事長にでも話してみようか。ライラック理事長は、その政治的な手腕を買われて他の企業からグラーシアに引き抜かれてきた誠実な男だ。本来なら一介の講師でしかないヘイルマンにとっては遥か遠くの存在の筈だったが、故郷が同じだったということでいつか話が盛り上がったことがあり、今でも会えば世間話をする仲であった。
「ん?」
 ふとぺったりした耳に奇妙などよめきを聞いて、ヘイルマンは視界の端に映るものに首をまわした。
 そこには人だかりが出来ていて、ヒソヒソと言葉を交わしあったりあからさまに声を張り上げたりと、どうも中で喧嘩でもやっているようだ。
「どうしたんですかな」
 元からどんぐりのような眼を更に丸くしながら、野次馬根性をだして人だかりの一番外にいた若い男に話しかけると、彼も肩をすくめて顎をしゃくった。
「ケンカみたいだよ。ほれ、見てみ」
「ほう」
 確かに人の頭の間を縫うようにして覗きこむと、二人の男が向き合って一触即発の様子で荒々しい会話を繰り広げている。
「ったく、警視院の連中は何やってんだよ」
「簡単には手を出しにくいんでしょうな。民間人同士の喧嘩は」
 ヘイルマンはとぼけたようにぼりぼりと横腹をかいた。警視院の最たる職務は治安の維持であるが、都市の唯一といってもいい娯楽のある区域で起きることには時に目も瞑っていたりする。水清ければ魚なんとやら。まあ、単に日々起こる天才たちの奇想天外な行動に振り回されて、こちらまで手がまわってないだけかもしれないが。
「最近おかしいぜ。この辺りも、警視院もよ」
 若い学者風の男は、解せないと言わんばかりに顔をしかめる。そうですかな、とのんびり返すと、そうだよと彼は学者らしくきっぱりと反論してきた。
「だってよ、妙にこの辺りの巡回警備員の数が減ったろ? 怪しいやつ泳がせておいて、もうすぐ一斉捜査でもかけるつもりなんじゃないのか。最近、怪しげな話をやたら聞くからな」
「ああ。そういえば、私も不思議な話を聞きましたな。なんでも、グラーシアの生徒が化け物だとかなんとか」
「あんまり面白くねぇ冗談だな、それ。あそこにいるのはただの有頂天のガキ共じゃねぇか」
 ごもっとも、と喉元まで言葉が出てきそうになって、ヘイルマンは口をつぐむ。流石に自分の勤めているところの悪口を許容するわけにはいかない。例えそれが的を得た事実だったしても。
「こっちはもっと妙な話だぜ。噂だけどよ、この都市で妙な魔術師が徘徊してるらしいんだぜ」
「はて?」
 その話はまだ聞いたことがない。興味を持ってくれたことに気を良くしたのか、彼は得意げに説明してくれた。
「都市内でふらふら宙を舞う影を見たってもっぱらの噂だよ。護符を持った魔術師か、はたまた幽霊か。どっちだと思う?」
「ほうほう、それは中々奇怪な話ですなぁ。護符を持っていたところで浮遊術を行使するとなると、よほどの使い手と思われますし」
「だろう! 最近はこの辺りの治安も悪くなったし、そんな噂まで流れてよ。ちょっと奥の方まで行けば人っ子一人いない。皆怖いんだろうなあ」
 所詮は人間だよな、と自分も人間の癖して自慢げに男は顎をそびやかした。そうしている内に、やっと騒ぎを聞きつけて警視院の職員がやってくる。若手の職員も混じっていて、若い内から苦労してるなぁとヘイルマンは明後日なことを考えながら、さりげなくその場を離れた。

「幽霊かー」
 グラーシア学園の職員用の宿舎までの帰り道、人通りのほとんど失せた寂しい大通りを歩きながらごちる。
 空に浮く人を見たなど、生きていれば五回は聞きそうな与太話ではあったが。まあ、飲んだ後の余興としては悪くないかな、と不精ひげの生えた口元でくすりと笑った。
 面白いものである。人はどうして、そのような幻想を見るのだろうか。きっと心理学者辺りが話を聞けば、うんたらかんたら長い講釈を垂れてくれるんだろうが。
 しかし治安が悪くなるのは勘弁して欲しかった。ただでさえ、同僚の特にレインという教師からは毎日酒場に通っていることについて、白い目で見られているのだ。これでは禁止令まででるかもしれない。一日の疲れを酒で癒す彼にとっては、まさに死活問題である。
「やだなー。なんとかなんないかなー……うん?」
 視界の端の方で何かが妙に俊敏に動いた気がして、ヘイルマンはつと足を止めて、空を見上げる。
 グラーシアの夜は、街灯の下で静寂に落ちる。冷たい輝きに照らされる薄青の道は、幻想的でもあった。
 そこに、屋根の上を蹴って今飛び立ったのは、あれは――人影?
「……」
 暫く思考を停止させて、誰もいない空を凝視していたヘイルマンは、口を半開きにしたまま顔を元に戻した。
「え、いや」
 まさか、あんな場所に人がいるとも思えないし、それにあんな高さから飛び降りるなど――。
「……酒の飲みすぎかな」
 もう一度顔をあげて、無人の屋根を確認すると、ヘイルマンは首を捻りながらも背を向けて歩き出した。少し、明日から酒の量を控えた方がいいかもしれない、と考えながら。

 グラーシアの夜は、有象無象の何もかもを呑みこんで尚暗く、そこに潜むものを優しく冷たい手で包んでいる。男の後姿の遥か向こうで、ゆらりと灰色の影が揺らめいたが、それも今は闇の中――。