幼い頃から、警視官になるのが夢だった。
 いや、別に親が数々の武勇伝を持つ伝説の警視官だったからとか親友が犯罪者に殺されたからとかそういう壮大だったり悲壮だったりする決意があったわけではない。
 ただ悪者を捕まえるという響きが当時の子供の目には大層魅力的なものに映ったのだ。それに親に警視官になりたいと言ったらとても喜ばれた。
 だから、彼は当たり前のようにそちらの道を選び、突き進んでいったのだ。
 勉強の出来は可もなく不可もなく、その分運動がそこそこできるといった平凡な彼だったが、幸いにして警視院の門はそれほど狭くはない。正義感を持って人並みに努力を重ねれば、試験に合格するのもそう難しくなかった。
 そんなわけで、ジェムスは警視官になったのである。

 ああ。今でも覚えている。
 それは、馬鹿みたいに晴れ渡った初夏のことであった。
 晴れて警視官の証である手帳とバッジを手にしたジェムスたち新人一同が迎えたのは、一年と少しの研修の後の配属先の発表の日。
 警視院の仕事は配属先によって全く違う様相を見せる。昼夜問わず東奔西走し、ええ休暇って何それ食べれるんですかというような現場もあれば、町によってはあまりに暇すぎて裏庭の草むしりをやりながら日々を過ごすなんてところもある。
 数十名の若者たちは、所長の単調かつ暴力的なまでに退屈な長話を乗り越えていよいよ読み上げられる配属先にそれぞれ手に汗を握ったものだ。ジェムスも無論その一人だった。
 そして、最後の方になり不安になってきた頃、やっと彼の名は告げられたのである。
 ――その配属先と共に。




『配属先、グラーシア警視院本部刑事部捜査第一課』




 学術都市グラーシア。そこは国を越えて世界に名だたる学者の町、学びの楽園である。
 町のほとんどの建物が研究施設で占められており、また世界有数の膨大な蔵書を持つグラーシア国立図書館、全寮制である聖なる学び舎グラーシア学園、最先端の医療研究を進めるグラーシア国立病院など、有名な施設名を挙げれば限りがない。
 様々な地域から学者の集うそこでは学問の独立を謳い、あらゆる権力や文化は彼らに影響を与えることを許されない。その為、グラーシアは広大な草原にぽつりと落ちた石のように外界とは一線を置いて存在している。
 まさに、陸の孤島なのである。
 唯一の生命線は大陸を南北に貫く蒸気機関車だ。隣の町に徒歩などで行くのにはとても無理な距離であるから、入るも出るも蒸気機関車を使わざるを得ない。また生きる為に必要なものは全て機関車が乗せてくるから物価も高い。更に研究施設ばかりであるから、観光に来ても三日で飽きる。こんな辺鄙なところに来たがるのはそれこそ研究に没頭したがる学者くらいなものだ。
 まさに引き篭もりたがりの為にある都市なのである。
 さて、話を晴れて警視官となったジェムスに戻そう。
 ジェムスは、その配属先を聞いた瞬間、げっと口元を引きつらせた。
『あそこはヤバいらしいぜ』
 そう上司たちの会話の端々から漏れる噂を聞いていたからである。
 グラーシアといえば、警視院にとっては激戦区で有名であった。いや、職員に人気で所属するのが大変という意味の激戦区ではない。
 まあ、つまり、あれだ。
 業務が忙しいという意味での激戦区なのである。


「だーかーらーねー! そんな話聞いてないわよこのクサレ役人ーっ! ちょっとくらい使ったからって一々目くじらたてるんじゃないわよアホバカクズ!!」
「いえ、ですからあなたが実験に用いた薬剤はまだこの国では承認されていなくて、被験者に投与することは違法」
「いほーいほーいほー、口を開けばそればっかり! アンタたちの頭の中にはイホー鳥でも住んでるわけ!? さっさと開放してよ論文書かないと隣のクソ野郎に賞持ってかれんのよ!!」
「あ、あの落ち着いてくだ」
「落ち着いてられるかってのよ締め切りいつだと思ってんのアンタ馬鹿? これで論文失敗したら業務妨害で訴えてやる!! 大体何? あの薬が承認されてないなんてどれだけ遅れてるのよ私たち学者がどんなに苦労してるか知ってるのねぇアンタ!!」
「いや、皆さんが苦労なさっている話はお聞きしていますが……」
「は、聞いてんならやってよ今すぐ! 今ここで合法って承認しちゃいなさいよあんた役人でしょう!?」
「む、無茶言わないでくださ」
「○×▲□☆!!!」

「……」
「あの、何か喋って頂けますか。あなたの実験が失敗したことで二人が軽症、一人が骨を折る重症を負ったと報告されているんです。それは事実と認めますか?」
「……」
「黙っていてもここを出ることはできませんよ」
「……星の」
「は?」
「星の子が降ってくるんだ……」
「あの」
「君は星の子を知っているかね」
「えーと」
「知らないとは。嘆かわしいことだな。夜空にある星間物質のうち自力で光っていないか光を反射しないために光学的には観測できない物質は魔術応用により形をドルツマー型に歪め、世の質量の大半は重力とユル魔法を解してのみ相互作用する物質で成っているといわれるが現状では純粋に理論的な存在とは言えず私はむしろドルツマー型に歪んだ物質こそ亜粒子論にあるウォルツの仮定を裏づけるものと考えており、更にそこに静的魔力を加えることにより自発的にユル魔法の構成要素を生み出す星の子と仮定される存在が」

 ジェムスは配属後、3ヶ月でげっそり痩せることとなる。グラーシアの犯罪者の大半はこんな感じだ。
 上司はすっかり食欲の落ちた彼に言ったものだ。
「いいか、奴らを刺激するな。まずは落ち着かせろ。一言でも余計なことを言ってはいけない、細心の注意を持って挑むんだ」
 まるで猛獣に対する扱いである。

 天才的な学者というものは往々にして人並み外れた感性を持っているものだ。その為にこそ学問の発展に彼らが大きく貢献するのであるが、彼ら――いや、奴らは一歩間違えれば平気で違法となることを犯してのける。
 自己中心的な性質が災いするのか、とにかくこの都市ではそこここで異臭騒ぎやら小爆発騒ぎやら研究員が女学生に手を出して云々とか、事件が次から次へと発生する。
 更に奴らは学問に身も心も売り払ったかのようにこちらの調査に非協力的であることが多い。研究のことしか頭にないのか、と何度も突っ込みたくなるが、実際そうなのだろうからやるせない。その上、学究の徒でないこちらをどこか見下しているようにも感じられて腹立たしくもなる。学者とはえてして頑固で負けず嫌いなのだ。中には既に思考が論理の彼方にぶっ飛んでおり意思疎通すらとれない人間も結構いて苦労する。
 相手がただの凶悪犯であったらまだ精神的に楽なのだ。だが、この研究者たちは自分が悪いことをしていると全く思っていない。いや、そういう常識的な人間もいるのだろうけれど、そうでない人間がいるからこそ警視院出動の事態が起こるのである。
 奴らはいつだって自分が正しいと思っているのだ。法律はきっと自分の頭の中だけにあるのだ。そうに違いない。
 そんな化け物たちと戦い続けた百戦錬磨の上司のすっかり薄くなった頭髪を見るたびに、新人たちは切ない気持ちにもなろうものである。これが数十年後の自分の姿だというのか。

 おまけに、研究者の見張りだけに気を配っていればいいかと思うとそうでもなく、このグラーシアは一部で犯罪の温床と呼ばれているほどに犯罪者の恰好の潜伏場所となっている。
 元々閉鎖的な都市であり、自分以外は全て敵とみなす個人主義な学者も多いことから、犯罪者が隠れ蓑に使うには最適なのである。自由奔放な天才たちの面倒と、潜伏する犯罪者の摘発。その忙しさには軽く実家にも帰りたくなる。
 また、怪しげな宗教団体の根城になっている場合もあるのだが、その団体が事件を起こし逮捕後に近隣住民に話を聞いても『アラー、確かになんか怪しげな呪文聞こえてきたけどまぁここじゃ普通だしねぇ』『俺の研究の邪魔になってもねぇし』『あ、いいところに来ました、ちょっと被験者になってもらえます?』とか呑気な証言しか返ってこなかったりして困る。あまりに危機感が薄すぎるのである。というか、事情聴取に来たというのに被験者として引っ張りこもうとするっていうのはどうなのだ。
 こういうことに慣れてくると、研究がうまくいかなくなって資金横領して捕まる学者がとても可愛く思えてくるから不思議である。むしろ人間味があって彼らの心情が理解できる分、なんだか嬉しくなってしまったりする。いや、犯罪は許されないことだとは分かっているのだが。

 そんなわけで。ジェムスはすっかり実家にも帰れなくなってしまい、昼夜問わず聖なる学術都市を東奔西走する羽目になったのであった。
 実家の母に手紙でも書こうかな、と思ったのは所属してから丸一年経った頃だ。その日もジェムスは奇怪な事件を担当することになって大事な頭髪をかき回していた。都市の外にある屋敷が丸ごと燃えて死者がでたのである。だがその屋敷というのが――、もう、語るのも面倒なので割愛する。とにかく奇怪なわけである。
 事件に巻き込まれた少年たちがまだ話の分かる人間だったのが唯一の救いだった。あの聴取に応じてくれた少年のなんだかこちらを哀れむような目が忘れられない。
 ジェムスの母は息子がグラーシアに勤務することになったと聞いてしきりに心配していた。なんせ曰くつきのグラーシア、閉鎖的な空間に精神を病む者も多い。国の統計で自殺者数は毎年トップという不名誉を与ってもいる。
 ちなみにちょっとした余談であるが、同じ都市にあるグラーシア国立病院でも、新人の外科医が『生まれて初めての患者が手首切った自殺未遂者だった』と嘆くことがそう珍しくないらしい。
 学者は個人主義であり、孤独だ。そこここで嫉妬や恨みによる心のせめぎ合いが起きている。自分で成果を出さねば、誰も助けてくれない。時には心を削ってでも注意深く冷徹に振舞わねば、他人に成果を喰われてしまう。
 そんな人生に疲れて壊れてしまう者は、きっと多いのだろう。人は、論理だけでは自己を統制できない。
 この点においては、警視院でも重苦しい溜め息と共に少しでも彼らの助けになれるようにと苦心している。やはりグラーシアの閉鎖的な気質に阻まれその動きも難航していると聞くが。

 さて。少し、暗い話をしてしまったが、しかし、とジェムスは白紙の便箋を眺めながら考えた。
 グラーシアの讃えられるところは、何だろう。
 母を僅かでも安心させるべく、グラーシアの良い点を書き連ねようと思ったのだが――。
 なんだ。国立図書館はとても立派で面白そうだ――いや、本を読まない自分がそんなことを言ってもどうなのか。
 では。ちょっとくらい深夜に屋根の上で奇声をあげながら設計図を書きなぐる学者と遭遇しても何とも思わなくなった――いや、これは逆にもっと心配されそうだ。
 あとは。グラーシア学園の女子学生は制服も可憐で目の保養になる――いや、それは例え紛れもない事実だったとしても色んな意味でまずい気がする。
 ぼんやりとペンをいじくりながら暫しの時を過ごし、ジェムスはふとある点に思い当たった。
 それは、都市の静けさである。
 住人のほとんどが学生か学者であるこの都市は、人の営みが本当にあるのかと疑いたくなるほどに静かだ。無論、静寂というわけでもないし、研究施設のある方面に行けば機械の駆動音などがしてくる。
 だが、うんざりするような人ごみのざわめきや騒々しさは、歓楽街の方に足を伸ばさぬ限りあまり目にすることはない。なんせ、ここは引き篭もりたがりの都市なのだ。研究室からほとんどでない人間も腐るほどいるし、道行く人もどこか急いでいるように感じられる。
 その有様を嫌悪する同僚はいる。人の営む地として、ここはいびつだ、と。
 家族としての繋がりも持たない、孤独な学者たちの住処。
 しかし、ジェムスはそんなこのグラーシアの空気は始めは驚いたものの、中々嫌いではないと思い始めている。
 確かに大通りの静けさには時折寂しさを感じないでもない。だがその分人ごみに酔うことはないし、周囲には不思議なものを売る店が軒を連ねていて見ていて面白い。
 また、この都市は元より学者の都を作る為に設計されたがゆえに道がほぼ全て方眼の形に伸びていて、迷わない。住所を聞いてすぐに現場に直行しなければいけない警視官としては嬉しいことである。
 そして、このグラーシアの静けさが時折何よりも心を落ち着けるようにジェムスには感じられるのだ。自分の業務が忙しいからかもしれない。ふと立ち止まるときに、都市を静かに吹き抜ける風の中でジェムスはなんとなしに空を見上げることがある。
 硬質で完成された学びの都。その手はとても冷たいが、時にはそんな痛みを伴う孤独がふと心地よさに変わるときもある。
 そんなことを言えば、きっと同僚たちからは笑われるに決まっているのだろうけれど。
「おい、ジェムス、キール!」
「は……? は、はいっ」
 思考をぼんやりと彷徨わせていたジェムスは不意の呼び声に一瞬気の抜けた返事をして、慌てて立ち上がった。呼びかけてきたのは上司だった。受話器を肩と頬の間に挟み、右手はペンでせわしなくメモをとっている。流石百戦錬磨のグラーシアの警視官、堂に入ってるな、と考えてしまう。
「西南地区、31番通りの2234番地で不審な煙が発生していると通報があった、二人で行ってこい!」
「え、は、はいっ!」
 ああ、また仕事だ。新人がこき使われるのは警視院ではどこも同じであるが、実家に手紙を書く暇もないのはグラーシアくらいじゃなかろうか。
 毒づきながらも素早く住所を頭に叩き込んだジェムスは上着を羽織って、同僚と共に現場へ向かうことになったのであった。もちろん、書きかけの手紙はそのままに。
 帰ってきたら続きが書けるか――いや、報告書作成でそれどころじゃないだろうな、とジェムスは苦々しく考えて、実家への手紙が完成するのはもう少し時間がかかるな、と一人でごちた。
 今日も、警視官たちの戦いは続く。