-紫翼-
一章:聖なる学び舎の子供たち
35.おぞましいもの
白亜の大門を越えて、ついに都市の外に出る。ぜいぜいと乾いた音で喘ぐと血の味が口内に広がるが、構う余裕もない。灰色の子供は疲れを知らないように視界の奥を走っていく。
それがまるで蜘蛛の巣に自ら飛び込んでいくような行為であることを理解しているはずなのに、体は自分のものでなくなったように動き続けた。
自分の意思と体が乖離して分厚い壁で隔てられているような現実感のなさに、網膜の奥だけが悲鳴をあげ続ける。やめろ、やめろと何度も叫ぶ。
なのに、体は林道に入っても走り続ける。遠くを灰色の影が軽やかに駆けていく。
ついに影は道をそれて深い林の中へと分け入った。躊躇なく自分の体もそちらに向く。がさがさと、葉を踏みしだく音が妙にはっきり耳へ届く。
そうして、とうとう俺の体は限界を迎えたらしい。木の根に躓いたのをきっかけに、がくりと傾いで人形のように倒れた。
「――っぅ、はぁ、はぁ」
倒れたという外からの衝撃があったからか、ぐんと体中に心が染みていくようにみるみる自由が戻ってくる。
心臓が破裂しそうなほどに波打ち、全身を暴れるように血液が巡る。顔をあげると、視界は激しく回転し、点滅して眩む。
貧血にも似た不快感に吐き気を覚えながら、敷き詰められた落ち葉を握り締め、彩度の低い世界に灰色の影を探した。しかし、地面を覆う茶色い葉と木の幹、緑の葉赤い葉こげ茶の葉、合間から除く妙に白い空――、昏い現実には耳障りなほどの自分の呼吸音が鳴り響き、満足する情報が見つからない。
眉をひそめる。もしかすると全て、幻だったのだろうか。あの影も言葉も瞳も、全てが架空のものだったのか。
「っ?」
刹那のことだった。
世界が揺らめいた。
体が、勝手に動く。
息が詰まるような浮遊感。
時間が凍りついたように世界が白み――。
「――ぁ!!」
激痛にぱっと目の前が真っ赤に染まり、声のない悲鳴が嘘のように勝手に喉の奥からほとばしった。
ずるり、と体がぼろきれのように地に落ちる。
背後の大木に背中から叩きつけられたのだと、理解が訪れたときはもう指先にすら力は入らなかった。
「ふふっ」
笑い声。愉悦に震える言葉。まるでこらえ切れなかった、というような。
「馬鹿だなあ。こんな簡単な術に引っかかるなんて、思いもしなかった。よっぽど平和に暮らしてるんだね?」
木々の間から、小さな子供が姿を現す。子供はにっこりと笑って、灰色の髪を揺らした。
「やあユラス。久しぶりだね」
「――、」
何か言葉を紡ごうとしたそれは、痛みに吹き飛んだ思考によってうめき声にしかならない。火がついたように体中が痛みに焼け、全ての動作を拒絶する。
ふん、とつまらなそうに鼻から息を抜く音。
「そっか。覚えてないよね。お前は何も知らないんだ」
言葉の終わりと同時に、体は再び吹き飛ばされた。先程よりも速度が遅かったのか、感じることが出来なかったのか。ただ、焼け付くような衝撃があった。
喉を液体がほとばしり、こふっと生暖かいものが溢れて口から垂れ流される。体がどうなっているのか分からない。仰臥しているのか、うつ伏せなのか――。
ちかちかと点滅する世界に、ぼやけた小さな影があった。ここにいる感覚を削いでいく、やわらかい音色。
「ねえ。平和面して生きててさ、罪悪感とか感じないの?」
それでいて、降りかかる声は凄惨な響きをもってして笑っていた。
何が、何が――どうなっているのだろう。
「――なん、で」
あらゆる疑問と苦痛と混乱で満たされた頭が言葉を紡ぐ。それで何が伝わったのかは分からない。
引き伸ばされたその時間は実際どれくらいだったのか、――不意にくすくすと転がるような笑い声が降り注いだ。
「ほんと、何も知らないんだね。――ほんとに、何も」
天から響くような子供の声は、次第にしわがれた老人を思わせるそれに。黒よりも濃い悪意、闇より深い殺意、世界の明るさが逆に強いコントラストを持つ刃に変わり、そしてその全てがこちらに向けて引き絞られた。
「分かってるんだよね? 自分が、まともじゃないなんてこと。平気で外を歩いちゃいいけないこと。分かってたでしょ? そのくらいは分かったよね? ――なんで分からないんだッ!」
光がほとばしる。笑えるくらいに簡単に吹き飛ばされて、再び木の幹に打ち付けられる。
けれど、それらの痛みが純粋に届かないほどに混乱した思考は、ただ氷結する。こんなにも簡単に自由の全てを奪われて、理解の訪れぬ体は抵抗をするどころか、すくんだ被食者のように固まるまま。
「教えてあげようか」
ひくり、とぬるつく唇が僅かに震える。
「――教えてあげようか、何故お前が在るのか」
世界が暗転するような言葉が、ふと落ちた。恐怖がじわじわと喉元から攻めあがる。無残に転がるものへの優越感からか、にぃっと口元がひきつるように笑んで、灰色の瞳に恍惚が宿った。小さな手がかざされる。虚空から見えない何かが生まれ、ぞっと胸が冷えた瞬間にはびきびきと体がしなる。
「教えれば、お前はもっと苦しむのかな」
震えた声は怒りによるものか。表情を表すかのように、風が唸る。
「――ぅ、あっ」
目だけは開いたままだったので、自分がどうなったのかは分かった。見えない力となったそれはあっけなく俺の体を地面から解き放ち、呼気すら許さないとばかりに締め上げたのだ。ぎちっと骨がきしむ音を聞いて、喉から悲鳴がほとばしった。
感じたことのない、気が遠くなるような痛み。
――何故?
充血した脳内が、壊れた機械のように繰り返す。
――何故? 何故? 何故?
――どうしてここにいる?
――どうしてこんなことになった?
――どうして、俺は。
逆にこちらを見上げる立場になった子供は、肩を揺らして笑っていた。ぼやけてゆらいだそれは、酷く歪んで見えた。黒い塊が、その中心から湧き出ているようだった。
――何だろう、あれは。
ぎち、ぎち。
「お前は本来、こうして生きることを許されない」
ぎち、ぎち。
体が締め付けられているはずなのに、真っ赤な意識の中からそんな異音が聞こえてくる。
外からの刺激に、内なるものが首をもたげた。それは、胸の一番奥に忘れ去られたように落ちていた意識だ。
鎖で縛られたような意識は訳も分からず膨らんでいく。それでまた痛みが増すのに、ふつふつと、ふつふつと、止まらない。
「――っ」
体が異物によって別のものになっていく。全ての構造が組み替えられていく。
何が――何が起きているんだ。
意識を手放してしまいたいのに、みるみる大きくなるそれは、――痛みと共に、全てを支配して。
「許されない存在なんだよ」
ふつり。
まるで、膨れた水風船が針で刺されて潰れたようだった。
心を覆っていた何かが消滅するのは、たった一つ瞬きをするだけの間。
どろりと薄膜に包まれていたものが、頭上から――体中に降り注いだ。
――ああ。
なんだろう、これは。
体が熱を帯びて、知らないそれを取り込んでいく。度の強い酒のような熱いものは、瞬時にして――何もかもを飲み込んだ。
「殺しなんてしない、――もっと怖いものを見せてあげる」
「うるさい」
かちり。
目の前の世界が、くるりと変わった。
パズルのピースが一つはまったような、何にも代えがたい充足感。
目を見開く、前にいる、子供が。
うるさい。
――うるさい。
聖典に伝わるとおり、思惟が力になるというなら。ならばこれは力だろう。
精神の一つ一つ、その全てが染め上げられる。熱く煮えたぎって唸りをあげる。
「冗談じゃない、何も分からずこんなところに投げ出されて、分からないことが怖くて、やっとのことで立ち向かえば拒絶されて」
はっと息を呑んだのは、自分自身。
――今、何を言っている?
否、言っていることは分かっている。これは、己の意思だ。紛れもなく、自分で思っていたことだ。
なのに――?
「で、なら静かに暮らしてればいいかと思えばこれだ。笑えもしない、本当に」
どうして言葉が止まらない。
どうして――笑っているんだ。顔をゆがめているだけなのに、口元だけが引きつるように笑みを形作るんだ。
何かが大きくなっていく。
ああ。
染まる。
止められない。
紅く染まった視界の果てで。
とうとう――俺は、目を閉じた。
「教えろッ!! 俺は誰だ、何やった、俺に分かるように全部言えっ!! その上で殺されるなり何なりされてやる、もうこりごりだ、もう、もう――!」
湧き上がってせめぎあうものが体を満たし、それは留まることを知らず器を溢れて外へ放たれる。
頭の痛みが消える。代わりに胸に注がれる、冷たいもの。
理解は思惟すら噛み切って、しびれた頭が優しく囁いた。
――壊してしまえ。
目の前にある不快なものを、全て享受する必要なのないのだ。いらないのなら、見たくないのなら、そんなもの消えてしまえばいい――!
「――ぅ、あっ!!」
焼け付く喉から音がほとばしって、世界から解き放たれるほどの自由を手にした。
世界が俺を支配するのではなく、俺が世界を支配する。動かないはずの体中から力がみなぎり――。
――いけない!
腕が、翻った。
ぱんっ、と奇妙な破裂音。
――首が飛ぶかな、と思った。何故なら、――自分の腕で、自分の頭に向けて、開放された何かを放ったのだから。
どさり。
地面。
戻ってくる重力。
「やめ、ろ」
かすれた声で、紡いだ。
「やめろ、やめろ――出て、くるな」
何を言っているのだろう。
ああ、と遅れて理解する。
頭にもたげたあの意識。目の前のものを壊してしまえと、優美な夢を囁いた。
「やめろ」
今度ははっきりとした意思で抑えつける、自分自身を。
「やめろ、やめろ、やめろ、やめろ」
壊れた意思で、抑え続ける。感じるものは、何もない。
「やめろ、やめろ」
否、視線だけが感じられた。こちらを見る大きな瞳。おぞましいものを見る目。
けれどそれらの想いは汚染されて塗りつぶされた。憎悪、そして憐憫。恐怖に笑んだ愛らしい声。
「お前なんか」
それは、こちらに向かってきている。あれがここに来たとき、終わるのか、何もかも。
全身が酷く冷たい。唇だけがうごめいている。もう、声はでていない。
「お前なんか、いなければ良かったんだ」
先程の歪んだ感情でない、純粋な殺意があった。
自分のものでない力がある。あれが降り注いだら、確実に終わるだろう。このまま放っておかれても終わるだろうけれど。
――死ぬのか。
そう思うと、再び頭に抑えこんだはずのものがもたげてくる。またこちらを無視して大きくなろうとする。
――こんなところで終わりたくない、どうしてこんな目に、
――生きたい生きたい生きたい。
うるさい。静かにしていてくれ。そもそも、何故そんなことが思い浮かぶのかが理解できない。だから、さっさと終わってくれとすら思った。
けれど、中々終わりはやってこなかった。気がつけば、俺を終わらせるはずだったものは、息を呑んだように動かなくなっていた。気配が震えている。
「どうして」
声。
「――」
「――」
会話。
気配は二つになっていたのだ。
どろりと空気が重たい。
何を言っているのか、分からない。
更に気配。今度は大きな気配。弾かれたように、すぐ近くにいた二つの気配が消えた。
大きな気配は、まるで自らの存在を隠そうともせずに近付いてくる。
がさがさ、がさがさ。
世界が体全体にのしかかっている。押しつぶされてしまいそうだ。
がさり。
すぐ傍で、音。
「――」
ああ、この気配。
懐かしい。
「――ユ……ラス?」
消え入りそうな、言葉と意識と。
「――ユラスッ!!」
破裂したような呼び声。そういえば、いつの日かもこの名を呼ばれたのだった。何度も何度も、揺り起こすように、目覚めの世界に誘うように。
なのに今は――。
一つ一つ、呼ばれるたびに落ちていく。
――紫色の夢に、落ちていく。
***
鈍い光沢のあるプレートに施設名と共に彫られているのは、二匹の蛇がからまる木の杖だ。東の大陸に伝わる伝説で医学の神が手にしていた杖だという。そんなものをシンボルに掲げる大陸屈指の巨大な医療施設――グラーシア国立病院。
都市と同じように白を基調とする外観は、見るものを威圧し、拒絶するかのようだ。同じ形の窓が刑務所のように規則正しく並ぶ為にそう思わせるのか、それとも――死の臭いがそこから漏れ出しているのか。
どくりと心臓が嫌な響きで体を内部から圧迫し、学園長は一度胸に手をやりかけたが、構わずに門を踏み越えた。今はつまらない感傷に浸っている場合ではない。
自分にとっていかに息苦しいものが渦巻いていたとしても、それ以上の強い意志が戸惑う足を叱咤し、前へ動かした。
それでも表情が硬くなるのだけは隠せないまま、屋内に入ると、むっと消毒液の臭いが鼻をつく。学園長は迷うことなくロビーを通過し、廊下を抜けて階段を急ぎ足で登った。
そこから同じ扉が規則正しく並ぶ廊下を歩き、渡り廊下から別館へ。扉を開けて一つ目の角で、知った顔が向こうから歩いてくるのに気付いた。
向こうもこちらに気付いたようで、驚いたように小さく口笛を吹く。白衣を着た中年の男の出で立ちは、紛れもなく医者のそれだ。だが男性としては小柄で、赤茶の髪をぼさぼさに生やし、不健康そうな青白い顔と目の下の隈がどこか退廃的な印象を与える。くしゃくしゃの白衣のポケットに手を突っ込んでいた彼は、猫背のまま学園長の前まできて目だけで笑った。
「やあフェレイさん。――いや、学園長さん、でしたねぇ」
わざとらしく後半を強調する男に、学園長は会釈して返した。
「お久しぶりです。それで、彼の容態は」
「――ちっ、相変わらず可愛くねえな」
男は口元を歪め、小さな声で、しかし学園長には確実に聞こえる音量で呟く。それでも顔色一つ変えない学園長を、更に険悪な表情を湛えた目で睨めつける。だが、次に彼が口にしたのは医者としての台詞だった。
「心配すんなよ。命にゃ別状はねえ、もう処置もほぼ終わってる。意識は戻ってねえがよ。全治二週間ってとこかねぇ」
ぼりぼり頭をかいて、表情を曇らせたままの学園長を胡散臭そうに見上げる。
「っていうか、噂の秀才が大怪我で担ぎこまれたってだけでビビったのに、お前が保護者って聞いたときは逆にこっちが心臓止まる気がしたぜ。なんだ、ついに慈善活動でも始めたかよ」
「――彼には会えますか」
空気の流れのない静寂の廊下に声はしんと落ちて、やれやれといった風に医者の男は両手をあげた。
「へいへい、気持ちは分かるが落ち着こうや。今はまだ面会謝絶だよ、命に別状なしたぁ言ったが実験失敗で爆死しかけた奴の一歩手前って感じだったかんな。とにかく座って話そうぜ、保護者さん」
背の高い学園長を喧嘩でも売るような目で見上げて、医者の男はにやっと笑った。
「担当医は俺だかんな――皮肉なことによ」
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