-紫翼-

unknown space -術聖と呼ばれたある魔術師の知られざる物語-



 息を呑むような青空の下、白亜の都市が光輝を放ち大地を睥睨する。
 大海に似た荒野に人類の英知を刻むがごとく、その冷たい掌で人々を抱く。
 学問の都にして知の聖地、学術都市グラーシア。
 かの地にはじまりを告げる春は、湿った風に乗る渡り鳥と共にやってくる。

 少年は、凝然と立ち尽くしていた。そこにあるはずのないものを見たように。彼の紫水晶の瞳には、一人の女性が映りこんでいる。
 栄耀栄華を極めた噴水を背景に、妙齢の女性は細い体を質の良い服で包んでいる。儚げな面立ちは春の日差しの中では頼りなく、少年は思わず気遣いの言葉を口にした。
「……あの、お話をするなら、どこかで座った方が」
 瑞々しい金髪を美しく結い上げた女性は、その為にはっきりと見える表情で微笑む。
「では、ここに座らせて頂いても?」
 噴水の縁に目を落とす女性を見て、少年は困惑に眉を歪ませた。そんなところ、この女性が座るには不潔に過ぎるのではないだろうか。
 そんな少年の狼狽に対し、女性は軽やかだった。
「いいのよ。昔、よくこうしていたことがあったの。そのときのことを思い出したいのよ」
 触れれば砕けそうな細い腰で、そこに掛ける。少年は物言いたげだったが、咎めることなく、かといって隣に腰掛けることなく、ただ、数歩離れたそこで女性と向き合った。
 傷跡の修復に忙しい都市では、二人に目を留める者など誰もいない。ただ、湿った暖かな風がやわらかく吹き抜けていく。白と青の隙間を縫い、人の音と想いを乗せてゆく。
「……大体のことは、学園長先生にお聞きしました」
 言葉を受け、少年はやや怯んで表情を歪めた。拳を握り、言葉の刃に耐えることが出来るよう身を固くする。糾弾を受けるべき己の罪を、彼は真っ直ぐに認識していた。
 彼は震える唇で、静かに事実の肯定をする。
「はい。セライムは、俺を」
 言葉は続かなかった。口にした途端、少年は喉を詰まらせた。その事実に驚いたように、彼は目を瞠ったが、唇を噛み締め、こらえきれずに片手で目頭を覆った。
 女性は悲しげに眉根を寄せ、かぶりを振った。
「……私はあなたを詰りに来たのではありません。むしろ、逆なのよ」
 目元を乱暴に拭い、荒れる体の沈静に苦心する少年へ、静かに告げる。
「私は最低な母親でした」
 ぴくりと少年の肩が揺れる。哀れなほどに。少年はそろそろと顔を上げ、濡れた目元を大気にさらす。女性は視線を踊る水にやった。
「あの人を失ったとき、はじめはあの子を守るために実家を頼ったの。けれど気がつけば、過去を忘れたくてあの子を遠ざけてしまった」
 華々しく舞う噴水の先に、もういない人々の幻想を見ているのか。白磁の頬に色はなく、憂愁を込めて伏せられた睫が印象付けられる。
「そしてあの子は私の元から去っていった。私は、最低な人間だわ。私はね、そのとき、ほっとしてしまったのよ。あの子が心に傷を負っていることを知りながら――安心してしまったの」
 日常に埋没することで、胸の痛みは掠れてしまった。新たな光を求め始めてしまった。
「三人で暮らした、これ以上なく幸福で楽しかったあの生活は、全て夢だったのだと」
 つと、透明な雫が女性の頬を伝う。少年はじっとそれを目に焼き付けている。何もかもを奪われて、それでも生きようと、歪みを抱えて彷徨った女性の姿を。そして、その向こうにある己の罪を。
「セライムも、同じような気持ちでいると思っていたのよ。この学園に小さな夢を見ても、いつかは現実を受け入れなくてはいけない。そう、あの子も分かっていると思っていたわ」
「はい。あいつは、分かっていました」
 少年は女性がその先を促すように頷くのを見て、喉の奥から塊を搾り出すような必死さで続けた。
「だから強くありたいとも言っていました。でもあいつにとっての強さは、過去を忘れることではなくて、それを継いでいくことで」
 震える唇では紡ぐことがやっとという様子で、それでも少年は立ち続ける。
「俺に、手を伸べてくれたんです」
 喧騒が、人の気配を伝えてくる。罪の告白は少年の魂を震わせはしても、一人の女性にしか届かない。
 けれど女性は、涙を拭うこともせずに微笑んだ。
「……そうかしら?」
 思いがけぬ疑問符に、少年は憔悴した顔を向ける。否、もう彼を少年と呼ぶわけにはいかないのかもしれない。無知に帰来する稚気が失せ、代わりに希望と絶望の双方を知った面立ちには、見る者に感慨を与える光がある。
 女性はそんな少年を双眸に映し、眩しげに目を細める。
「あの子は、最後に私の元へやってきました。止める侍女を振り払って、殴りこみでもかけるような様子で」
 そう笑うと、少年も一度は息を呑み、眉尻を下げた。
「あいつらしいですね」
「ええ。私は……驚いたし、恐ろしくも思ったわ。あの子が、とうとう私を断罪しに来たのだと思いました」
「あいつがそんなこと、するわけないです」
「ええ、そうだったわ」
 青空から記憶を手繰るよう、顎を上げて女性は表情を歪める。
 少年もまたそれに倣い、透徹な空の果てに少女を想う。
「セライムは、私に自分の意志を話してくれたの。そう、あの人そっくりの熱意を込めて」
 陽光が雲の淵を燦然と輝かす。全てのものに残酷なまでに降り注ぐ陽光は、どのような絶望の果てでも変わりない。
「あの子は自分の思った道を行きたいと言ったわ。それが正しいとも、間違っているとも言わなかった。ただ、そうしたいとあの子は言ったの」
 空の果てに揺ぎ無い色をした瞳を思い出し、女性は苦しげに微笑んだ。
「そして、私のことはちっとも憎んでいないと」
 瞑目したそこから、無音で雫が零れていく。闇の中から初めて光を見た者がそうするように。
「私は酷い母親でした。娘を捨て、その娘に糾弾されることを怯えながら、ただ時が過ぎるのを待っていたばかりだった。あの子はあんなにも苦悩して彷徨って、ようやくその意志と言葉を伝えにきてくれたというのに、私は動揺してしまって。そんな愚かな母親を、あの子は」

 お母さん。

 拙く手を伸ばし、その腕に抱いた。空白の時を、たった一息で埋めるように。
 白い光が降り注ぐ、それは今日のように晴れた日のこと。

「きっと、あの子は最後まで真っ直ぐにあり続けたのでしょうね」
 少年は唇を噛んでいる。少女が走り抜いた先、そこに少年はいるのだ。数多のものを失って、そうして痛みと共に再び歩き出そうとしている。
「あなたのことも話してくれたわ」
 少年は立ち尽くしたまま、俯くように頷く。
「ちゃんと捕まえていないと、一人で何処かへ飛んでいってしまいそうな子だって」
 面映そうに頬をかく姿は、不意に幼さを印象付ける。
「でもね、そんなあなたを語るあの子は、大切なものを見つけた顔をしていたの。アランと同じ目で――」
 愛した男の名を呟いた瞬間、女性はそっと顔を覆った。泣き疲れた果て、幾年もの歳月の間、封じていた名だったのだろう。
 春の風の中に、花弁が霞となって舞う。抜けるような青空には眩い陽光が栄えを注ぐ。どのような痛みも飲み込んで、しかし世界は美しい。
 少年もまた歯を食いしばり、言葉のない慟哭に耳を傾ける。旅立ちまでの僅かな時間。その背に負うべきものを刻み、息を吸う。
「俺は、あなたから二つの大切なものを奪いました。それは覆すことの出来ない事実です。俺がいなければ、あなたは今でも幸福でいられたんでしょう」
 女性は指の隙間から、そこに立つ少年を見た。
 風が吹いている。永遠を思わせ、しかし留まることのない風が、合間を駆け抜けていく。
「だからあなたには俺を罰する権利がある。あなたが俺に断罪するというなら受け入れます。でも、もしも許されるなら」
 声が掠れて震えるのを必死でこらえ、希求を紡ぐ少年の瞳には、春の瞬きが宿る。その紫水晶には、世界が映っている。
「許されるなら、俺は行きます。セライムがそうしたように。彷徨うことしか出来なくても、最後まで人として生きていきます」
 決意をするには細すぎるようにも見える体だ。年頃の少年としては小柄な彼は、頼りない両足で地を踏みしめている。
 癖がついて跳ねる髪は、生粋の紫水晶から紡ぎだしたかのよう。闇の中では黒に溶け、光に晒せば燦然と輝く。薄い唇を引き縛る様には、恐れを必死で噛み殺そうとする未熟さがあり、頬は揺れる心を宿して僅かに色付く。
 そして何よりも印象付けられるのは、やはりその瞳だ。人形のように凡庸とした顔立ちをしているが為に、そこだけが際立っている。此岸と彼岸の合間に立ち、壊れそうな心を抱え、それでも何かを求める瞳だ。
「その先に……」
 不意に少年は崩れ落ちるかのように体を揺らす。あるいは風に吹かれたように。
 けれど、拳を握り締めたまま、紫の少年は顔をあげる。
 その足で、しっかりと地を踏みしめて。
「あいつが待っていてくれる気がして」
 女性はそこまで聞くと、肯定を込めて目礼する。
「アランも、セライムも、意思を貫き、何処までも人として生きました。眩くあれなかった私にとって、だからこそあの二人は光だった」
 その背に、大空を舞う翼を幻視しながら。
 失ったものへの痛みを胸に、小さく囁いた。
「だからあなたもそうして下さい」
 この少年はその翼をはためかせ、一体何処まで行けるだろう。永遠に飛ぶことも、果てに到達することも出来ぬと知った少年は、その虚無を抱え、他人の想いまでを背負い、何処まで行くのだろう。
 解き放たれた花弁を風が大空に巻き上げる。白や桃色のそれが踊る様は、たった一瞬の美しい夢。それは人の生によく似ている。風に囚われた彼らは、大空で孤独に舞う。時に重なり、互いを傷つけ、また離れながら。留まることもなく、その苦悩を記憶されることもなく。
 紫の少年は、そっと頭を下げた。女性へ、そして都市へ、愛するもの全てへ。ひと時の別れを告げるように。
「行ってきます」
 細い足が石畳を蹴る。白亜の冷たい掌を離れ、ゆっくりと前へ。
 女性がその後姿を見つめている。風がさわさわと頬をくすぐり、ふと、女性は隣に気配を感じた。そこには金髪の少女が凛と立ち、旅立つ少年を青い双眸で見送っている。たった一瞬の後、それは風に吹き消されてしまったけれども。
 撃ち抜かれたような表情で目線を戻す女性の視界では、少年はもう点のようになっている。冴え冴えと吹き抜ける風と遊ぶように。
 ああ、と女性は息をつき、瞼を閉じた。何もかも、終わるものなどないのだ。全ては連綿と続いていく。はじまりの春は、いつでも吹きすさぶ風の中にある。
 ならば、と透徹な空を見上げて想う。
 紫の少年の翼に向け、優しい願いを請うた。


 何処までも飛んでおいきなさい。
 いつか、疲れて目を閉じるその日まで。




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