-紫翼-
二章:星に願いを
51.フェレイ・ヴァレナス
フェレイ・ヴァレナスの名を始めて聞いたのは、試験結果の優秀者名が廊下に貼り出される中等院に入ってからのことだ。
幼学院にいた四年間は、優秀者の名前は貼り出されなかった。とはいえ、なんとなく噂や本人のそぶりで、優秀な生徒の名は全員の認識の中にあったはずだった。
だから、中等院にあがって、優秀者の名前が張り出されたとき、大体は予想した名前が連なっていた。そこまでは良かったのだ。
しかし、一番端――主席の座に輝いたそこには、ミューラにとって全く聞き覚えのない、顔も知らない生徒の名前があった。
フェレイ・ヴァレナス。
生徒たちはざわめき、誰なのだと口々に囁き合い、その名を持つ生徒を探した。
ミューラもまた、その生徒のことが気になった。医者を目指していた彼女は必死に勉学に励んだというのに、やっと両手で数えられる順位に入った程度だったのだ。羨望と嫉妬の感情は、幼い心にも確かなものとして存在していた。
誰がフェレイ・ヴァレナスなのか。好奇心旺盛な生徒によって噂が広まるのも早かった。ミューラもその生徒を見に行ったものだ。
彼はある教室の一番隅の席に、一人で座っていた。
――こんな生徒、いただろうか。
彼を見たとき、正直にそう思ったのを覚えている。
異国の出身と分かる淡い水色の髪に横顔を隠した彼は、いつ見ても机に向かって本を読んでいた。
学園では異国人が珍しくなかったせいか、その様子はあまりに周囲に溶け込んでいて、今まで目にも留まらなかったのだ。
「あいつ、全然駄目。なんか気味悪い」
彼と交友関係を結ぼうとした生徒は口を揃えてそう言ったものだった。
「話しかけても、ハイかイイエしか言わないの。しかもぼそぼそしてて聞きにくいし」
彼の名は、気が付けば学年中に知れ渡っていた。しかし、彼が教室で他人と喋っているところをミューラはついに見なかった。彼は外界に極端に無関心であったのだ。
彼は全ての生徒にとって、いてもいなくても変わりない存在であった。毎回、突出した成績で主席の座に収まっているのに、喜びもせず驕りもしない。人との関わりは希薄どころか無に近く。次第に周囲も彼への興味をなくしていく。憧れも羨望も、同じ「人」であるからこそ抱くものなのだ。ミューラの学年の生徒たちにとっては、次席に輝くことが羨望の対象となった。
彼を賞賛する者はおらず、貶す者さえいなかった。
そう。彼は、一人で世界を逸脱していたのだ。
一度だけ、話しかけたことがあった筈だ。日直の引継ぎで、日誌を渡しに行ったのだと思う。
「――あの」
彼は相変わらず、本に目を落としていた。驚くほど分厚く、細かい文字がびっしりと穿たれ、見たことのない数式が並んでいる本だった。
「あの」
二度目で、やっと彼は顔をあげた。しかし、その目はこちらを見ることはなかった。何処かぼんやりと、虚空を見つめているような様子だ。だが、むしろミューラは安心した。この得体の知れない生徒と目を合わせるのは、正直恐ろしかった。
「これ、明日、あなたが日直だから」
古びた冊子を机に置く。彼はそれを茫洋としたまま眺めていた。まるで陶器で出来た人形のように、彼の表情は動かない。瞳の色はぼやけたまま焦点が合わず、引き結んだ口は開いたことがあるのかと思うほどに硬質だった。
返事はなかったが、ミューラは黙ってその場を去った。
彼の異質さは、ともすれば飲み込まれてしまいそうに思えたからだ。
幼い日々は、風のように流れていく。
そのまま彼女は彼と何の接点も持たずに過ごす筈だった。聖なる学び舎で、医学を専攻するには、相当の成績が必要だ。余所見をしていられる時間は多くはない。
ミューラの両親は医者であった。だから、自分も医者にならばければ、と脅迫観念のようなものもあったのかもしれない。両親にも期待されていた。だからミューラは誰にも相手にされない生徒のことなど忘れ、勉学に打ち込む筈だったのだ。
都市には、有名な古本屋があった。
そこでは壮年の夫婦と、彼らの一人息子が切り盛りしていて、特にミューラよりいくつか年上の一人息子は、行けばいつも本の整理をしていた。
古本屋の息子と思えないくらいに体格の良い彼は、酷く愛想が悪かった。彼はいつも不機嫌そうにモップを動かし、本を運んでいた。お陰でその古本屋では窃盗などが起こることが一切なく、驚くほど整理された本棚で利用者を喜ばせていた。
小遣いの少ない学生にとって、古本屋ほどありがたい存在はない。中等院に上がっても勉強熱心だったミューラは、読んだ本を売り払い、その金で新しい本を買うことを繰り返していた。
そんなことを続けていたら、ある日、古本屋の息子が会計時に、鬼神もかくやという不機嫌そうな顔で、一冊の本を差し出してきたのだった。
「これも読めばいい」
一瞬、殴られるかと思って一歩後ずさったミューラだったが、それが科学書なのだと気付いて目を見開いた。
「古いがよく書かれている。内容も分かりやすい」
彼はそれを、ぎょっとするような安値で売ってくれた。古い科学書は、高名な学者の書いたものでミューラをのめり込ませた。
礼を言いに行ったら、また良い本があったら教えると言われた。
少し話をすれば、彼の書籍への造詣の深さに舌を巻いた。あらゆる分野で、古本屋の息子は名著を教えてくれた。饒舌に書籍を語る彼は、グラーシアの学生よりも、よっぽど知的に見えた。
ミューラは、毎日のように古本屋に通うようになった。
そして、彼女は初めて教室の外でフェレイ・ヴァレナスを目撃することになる。
彼もまた、古本屋の常連だったのだ。あれだけ本を読んでいたのだから、当たり前といえば当たり前だった。
制服を着た彼は、相変わらず影のように目立たず、両手に本を抱えて会計に持っていった。
驚いたのは、古本屋の息子が彼に話しかけたことだった。
「――探してた本だ、丁度入ったから取っておいた」
そう言いながら、古本屋の息子は奥の戸棚から一冊の本を取って差し出した。それを見た彼は、こくりと小さく頷いて、受け取る。ぼそぼそと何かを言った気もしたが、聞き取れなかった。
「気にするな」
古本屋の息子が珍しく他人を気遣うような言葉をかけているのを見て、ミューラは心臓が止まる思いだった。誰にも話しかけられない彼が、誰かと会話を成立させたところなど、見たことがなかったのだ。
彼が帰った後、古本屋の息子を問い詰めた。彼が学園でどのように見られている生徒かを聞かせ、何をしたら会話が成り立つのかと尋ねた。
だが、古本屋の息子は怪訝そうな顔で一言呟いただけだった。
「よく本を買っていくから、話をしただけだ」
古本屋では、少なくない頻度で彼を見かけた。彼は専門書ばかりを買い集め――驚いたのが、その分野に境界などないことだった。科学、文学、哲学、数学。果ては経済学や法学まで。
それを見て、若干の競争心にかられてミューラも医学や科学とは違う本に手をだしたものだ。しかし、長続きはしなかった。古本屋の息子はそれを見て、僅かに笑った。
「あれは特別だ、無理をすることはない」
その言葉には子供扱いされた気がして、つっけんどんに返した。その頃には中等院の上級生になっており、もう子供ではないと思っていた。
古本屋の息子は、何かあるとミューラの相談に乗ってくれた。
そしてフェレイ・ヴァレナスは体が成長しても相変わらず、一人で本を読んでいた。まるで空気になったように、ふわふわと。誰の気に留まることもなく。
時が駆け、季節は巡る。
努力の成果が実って、ミューラは医学を専攻することに成功した。そのまま医者の道を進むことは、すでに心に決めていた。
卒業も近くなってきた頃、古本屋の息子に卒業したらどうするのかと聞かれた。
グラーシア学園で医学を専攻した生徒のほとんどは、医師免許をとるために都市に残る。免許をとるには、大規模な病院に付属している育成機関で更に六年間学ばなければいけないのだ。ミューラは多くの生徒と共に、グラーシア国立病院付属の育成機関に入ることが決まっていた。
グラーシアに残るのか、と言われて、でも住む場所を探さないといけない、とミューラは笑った。学園の寮は追い出されてしまう為、下宿できる部屋が必要だった。
お金がないのに大変、と肩をすくめると、古本屋の息子は、ならうちに住めばいい、と当たり前のように言った。
プロポーズされているのだと気付くのに丸々三十秒を消費したミューラは、その後、顔色と表情で百面相を作ることになる。
彼はどうするのだろう、とミューラは卒業間近に思った。
夫になることに決まった古本屋の息子に聞くと、都市の研究機関に入るらしい、と返ってきた。それはグラーシア学園の卒業生として、あまりに順当な行き先だった。
だから、何とも思わなかった。彼もまた、ありふれた人生を生きるのだと思った。
しかし夫だけは、どこか心配そうにしていた。
***
国立病院の育成機関では、医者の卵たちへの洗礼の嵐が待っていた。早朝から深夜まで、下手をすると明朝まで休むことを許されない生活は、ミューラを煩雑な俗世から遠ざけた。
今考えると、夫はよく我慢してくれたものだと思う。その頃は蜜月などという甘ったるい単語には程遠い、まさに寝床を借りているだけという暮らしが続いていた。深夜にぐったりしながら帰宅し、明朝によろめきながら出て行くミューラを、夫は立場が逆転したかのように出迎え、見送ってくれたものだった。
嵐のような日々によって、古い友人と会う機会すらも少なくなった。そんなミューラにとって、フェレイ・ヴァレナスという無口な青年など、いつの間にか遠い夢の住人になっていた。
夫の店には来ていたのかもしれない。しかしその実否を問おうなど、思い付きもしなかった。
数年が経った頃には、もう同僚たちとも打ち解けていた。そこが彼女の生きる世界になっていた。
彼の存在が思考に上ることは、既になくなっていたのだ。
その日、ミューラは割合早い時間に帰宅し、課題に手をつけていた。
しかし、前日にほとんど寝ていなかったのが災いしたらしい。いつの間にか机の上に突っ伏していたミューラが目を覚ましたとき、肩にはショールがかけられていた。
慌てて時計を見ると、思いがけず針が進んでいてぎょっとする。既に夫は下の階で店の後片付けを終えている頃だった。
自己嫌悪のしわを眉間に寄せつつ、窓際の机からミューラはとっぷり暮れた外を忌々しげに見やった。
それが全ての始まりだったことに、気付くはずもなく。
グラーシアに冬の気配が近寄ってくる季節だった。
澄みきった空気は、夜空を美しく瞬かせる。
といっても、煌々と照る街灯はその輝きさえ霞ませてしまうほどだったけれど。
古本屋は、都市の大通りに面していた。元々学者の町であるグラーシアの夜は、人通りも少ない。
そんな通りにたった一つ揺らめく人影。
自然とミューラの視線は吸い寄せられた。
街灯の強い光源に照らされて、彼の髪は銀糸で紡いだような色をしていた。
どこかで見たことがある――と、ミューラは窓に顔を近づけて目をこらした。窓は冬の匂いを吸い込んで、ひんやりと冷たい空気をまとっていた。
「……フェレイ、君?」
細長い体の線が、小さな横顔が、古い記憶を撫ぜて呼び覚ます。だが懐かしさに浸る前に、不可解なものが胸に沸き起こった。
人影は、顔を伏せがちにして、ゆっくりゆっくり足を前に踏み出していく。表情までは分からない。中央広場の方に、どんよりとした速さで進む。まるで、死者が自らの墓に向かっていくように。
そのとき、言いようのない胸騒ぎがミューラの心を襲った。見てはいけないものを見てしまった気がして、思わずショールを握り締めていた。
吐息で窓が白くなり、慌てて拭ってもう一度彼を見る。
彼は、右に、左に、と体を揺らしながら歩みを進める。外は寒いだろうに、上着も着ていない。
取り憑かれたような淀みない動きは、人間という覆いを剥ぎ取ったかのようであった。
そうして、彼は夜の最果てへと消えていく。
「――」
ミューラは迷った。外に出て声をかけるべきか、かけないべきか。
彼との接点は、学園で同学年だったこと、そして同じ古本屋を利用していた程度でしかない。まともに会話したこともないのだ。声をかけて、どうするというのか。
だが、しかし、と頭の奥が強く警鐘を鳴らす。
ミューラの医者見習いとしての第六感が、彼からある匂いを感じ取っていた。それは、医療の現場に行けば否が応でも目にする、独特の雰囲気であった。
『――まさか』
気が付いたら、上着を壁からひったくって駆け出していた。階段を転がり落ちるように下りて、上着に腕を通しながら裏口まで駆けていくと、夫が驚いたように店から顔をだしてきた。
「どうした?」
「フェレイ君が! 何かおかしいのっ」
慌てていたとはいえ、自分でも酷い説明だと思った。しかし、詳しい話をしている場合ではなかった。
裏口を開け放って、外に飛び出す。視界の端で夫が上着を持ち出すのが見えたが、待っている暇はない。
服の隙間から、冷たい空気が流れこんでくる。裏口前の細い道から大通りに出て、彼が消えた方向に顔を向ける。既に彼の姿は嘘のように見えなくなっていた。
一体、何処に向かっていたのだ。一瞬だけためらって、ミューラは駆け出した。
冷気が肺腑を洗うように体に入り込んでくる。
しかし、それは同時に禍々しい闇まで吸い込むかのようだ。
静寂の都市が、これほど恐ろしい存在だと思ったことはなかった。街灯によって照らされている筈なのに、生命が死に絶えたように静まり返っている。
まるで都市が一つの巨大な怪物になって、その手の平に乗せられているように思えた。どれほど走っても、怪物はすぐそこにいる。
そう、歪みは、すぐそこにいる。
彼は、中央広場の噴水前に立っていた。おびただしい血を流しながら。
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