-紫翼-

終わりの記憶



「――ぃ、――せい」
 闇の中にたゆたっていると、誰かの呼び声が聞こえてくる。
 それは伸べられる手に似ている。沈み込んだ意識をもたげ、そっと空を仰ぐように闇を泳ぐ。
 何度だって繰り返してきたことだから――。
「先生! ユラス先生っ」
「んがっ!?」

 目を開くと白い光が網膜に飛び込んできた。眩しさに瞳孔が慌てて光を取り込む量を引き絞る。
 俺は、目覚めた。

「もう、何やってるんですか。とうとう死んだかと思いましたよ」
 仰臥したまま顔を向けると、腰に手をやったリュナが呆れた視線を注いでくれている。
「ん――朝か」
「はい。でも嵐が来るみたいですから、今日の散歩はやめておきましょう」
 体を起こそうとすると、慣れた手つきで手伝ってくれる。枯れ木のような体では、起き上がるのも一苦労なのだ。
 なんとか身を起こすと、背が倒れないようにクッションを詰められる。かと思うとリュナは「朝御飯持ってきます」と告げ、踵を返して部屋をでていく。甲斐甲斐しいが、せっかちな奴なのだ。
 粗末な窓は端の方が白くくすんでいる。こちらの目も悪くなっているので、外を伺おうと思うと、体をのめらせて窓に瞳を近付けるしかない。
「おつつ……」
 ぐきっと腰が鳴って、思わず手でさする。全く、なんでこんな長生きをしてしまったんだか。
 気を取り直して外を伺うと、リュナの言った通り、灰を振りまいたような空から小雨がぱらついている。この分では昼前から大降りになるに違いない。春を告げる嵐が、今年もやってくるのだ。

 窓の景色をぼんやりと眺めていると、昔のことを思い出す。
 あれから、本当に沢山のことがあった。白亜の都市を出発した時は、まさかあんなに長い旅になるとは思わなかったものだ。
 もう、あの頃の知り合いで生きている奴は誰もいない。俺が長生きしすぎてしまったのだ。なのに老化の速さは人と同じなのだから始末に負えない。
 足腰が動く内は、旅を続けられた。そうしている内に不本意ながら何人もの自称弟子がくっついてくる羽目になり、真に不本意ながら俺はそいつらの面倒を見てやったのである。別に何をしたというわけでもないのに、妙な称号を貰うわ、国のお偉いさんに会談を持ち込まれるわ、妙な事件に巻き込まれるわ――。
 しかしそれも、老衰による体力の限界がやってくるまでのことだった。
 本当は、もう弟子をとるのは終わりにしようと思っていたのだ。
 旅をやめると決意したとき、俺は人から隠れるようにこの山間の小屋に落ち着いた。近くの村からは『変なじーさんが住みついた』とか言われたが、そこは俺の身の上を隠す良いところだった。静かだし、余所者も滅多に現れない。その頃はまだ歩くことぐらいは出来たし、細々と畑でも耕してのんびり余生を過ごそうと思ったのだ。

 で、俺の住処を嗅ぎ付けたのが政府の役人でもなく、俺を教授として引っ張り込もうとする学者でもなく、一人の少女だったというのだから驚きだった。
 押し掛け女房のように乗り込んできたリュナは、開口一番『弟子にして下さい』と言い放った。でも、俺だってその頃はもう強力な魔術を使う体力も精神力もなくなっていたし、育てる自信がなかった。それに、魔術師向けの学舎ならいくらでも存在するのだ。わざわざこんな老いぼれに師事する必要などない。
 そう諭したのだが、リュナは帰ろうとしなかった。俺のことを何処でどう聞いたのか、とにかく俺の元で学びたいそうなのだ。両親がおらず、聞けば苦労の多い人生を送ってきたらしい。その話には同情するが、しかしだからといって承諾するわけにはいかなかった。
 そして家から追い出すことには成功したのだが、あろうことか少女は玄関前に居座ってしまったのだ。
 頭を抱えたものである。しかしまだ幼さが残る少女の前途を中途半端に導くことは出来ない。こんなジジイに構ってないで山を降りて学舎に向かいなさい紹介状ならいくらでも書いてあげるからと言っても、少女は頑なに首を横に振り続ける。
 こうなったらもう我慢比べだった。流石に少女が玄関前に居座るのは日中だけで、夜は村で宿をとっているようだったから凍える心配もないし、放っておけば諦めると思ったのだ。
 しかしリュナは諦めなかった。
 フローリエム大陸に春を告げる嵐がやってきた日、流石に今日は来ないだろうと俺は高を括っていた。でも、ちょっと心配になって、恐る恐る玄関を開いてみたのである。
 リュナが突っ立っていた。
 吹けば飛ぶような細い体で大地を踏みしめ、重たく濡れた髪をばさばさと暴風になびかせ、深い青の双眸でこちらを見据えていた。息を呑んで、俺は孫のような歳の少女と向き合った。その姿は、まるで――。
 いや、なんでもない。
 とにかく度肝を抜かれた俺は、思わず少女を中に入れてしまったのだ。
 勝負はこちらの負けだった。リュナは俺の最後の弟子になった。
 弟子にしてしまったなら、もう手を抜くことは出来ない。俺は老いた体に鞭を打って、リュナの魔術や勉学を見てやった。少女に抜群の才能があることはすぐに分かった。めきめきと腕をあげ、魔術師としての頭角を見せ始めたとき、苦々しく思いながら、けれど確かな喜びが沸いた。
 こいつは将来、きっと良い魔術師になる。頑固で融通がきかないところがあるが、その心は真っ直ぐだ。俺なんかの元にいるよりも、もっとこいつを必要としているところが別にあるような気がした。
 何年か修行を積ませて教えることもなくなったため、信頼できる人のところにやろうと思い始めた頃、俺は倒れた。

 足腰が完全に立たなくなった俺の存在は、リュナをこの家に縛り付けることになってしまった。
 頼むから俺のことは放って、別の人のところへ行けと言っても、
『何を仰るんです。こんなか弱い爺さんを捨てる非常識な娘に育てられた覚えはありませんよ』
 と一蹴されてしまい、今日に至るわけである。
 魔術師として最も多くを学ぶべき時期を、こんな老人の介護に費やすなど冗談ではないと思う。しかしリュナがいなければ、自分で体を起こすこともできない俺は野垂れ死んでしまう。
 これはさっさと手紙を出して、リュナを引き取ってもらうしかない。俺は――まあ、何処かの病院に入ることになるんだろうが、リュナの将来を思えばそれでも良かった。
 ……ということも話したんだが、リュナは『先生のお世話は私がやります』と突っぱねてくれた。再び頭を抱える羽目になったのである。俺の人生、こんなことばかりだ。

「裏手の扉、念のため釘打ちしておきましたよ」
「ああ、ありがとう」
 体は老いても頭だけはしっかりしているのが不幸中の幸いだ。作ってもらった朝食を口にしながら、苦々しい想いを胸に抱く。亜麻色の髪をそっけなく後ろで束ねたリュナは、雨脚が強まる外を眺めて小さく笑った。
「ようやく春が来るんですね。あったかくなるといいんですが」
 柔らかく煮たスープの具を味わいながら、俺も窓の外を見た。昼間だというのにやたらと暗く、部屋には既にランプが灯されている。
「雨が止んだら、ちょっと遠くまでお散歩しましょう。先生の顔、お日様にあてないと枯れそうです」
「何を。これは甘いものが足りないからだ。そういうわけで散歩のときはプティングを頼む」
 こいつの作る菓子は絶品なのである。体に悪いだのなんだの言って、あまり作ってくれないのだが。
 するとリュナは頬を歪ませた。
「……術聖と呼ばれたお人の台詞とは思えませんね」
「呼んでくれと言った覚えはない」
 これだけは本当だ。
 そのとき、にわかに雨音が強くなった。この音を聞くたびに、時の巡りを感じるものである。
 遠い昔の目覚めから、その頃は予想もつかなかったことが、世界ではいくつも起きた。時代は移ろったと思う。嵐の音は変わらなくとも――。
「分かりました。どうせ今日はこの嵐で何も出来ませんしね。作っておきますよ」
 食器を持ったリュナはそう言って寝室を出て行く。と思ったら再び扉が開いて、リュナが顔だけをだしてきた。
「先生」
「うん?」
 リュナは、こちらをじっと見つめている。
「本当に大丈夫ですか」
「へ?」
 師弟の間柄にあるまじき反応をする俺に対し、リュナは不安げに眉を潜めている。
「……いえ。ちょっと、気になっただけなので。何処かおかしいと思ったら、すぐに言って下さいね」
 ぱたん、と閉められた扉を暫く眺め、潰れかけた肺の奥底から吐息をつく。
 とぼけた返事でやり過ごしたが、リュナも気付いてるんだろう。俺の体力も食欲も、日が経つにつれて細くなっていることに。今日の食事も、味は良かったが少ししか食べられなかった。
 激しい雨の音が屋根を叩き、ごうごうと風がうねる。
 明日になれば、きっとこの嵐は過ぎ去るのだろう。目が覚めるような春を鳥が歌うのだ。
 散歩、か。良いかもしれない。もう外へは車椅子に乗ってでしか行くことが出来ないのだけれど、春の風は嫌いではない。
 すっかり色素が抜けて白くなった前髪を弄びながら、そんな光を夢想する。
 それはとても優しい夢だった。


 ***


 老いると眠りが短くなるというのは本当らしい。
 槍が降っているかのような雨音が天井から響いてくるのもあるが、灯りを消しても中々眠気はやってこなかった。若い頃は一度目を閉じたらよっぽどのことがない限り起きなかったのに。
 目を閉じて嵐に耳を傾けながら、暗闇の中をたゆたう。

 俺は本当に、あいつとの約束を守ることが出来たんだろうか。
 白亜の都市を飛び出してから、様々なものを見聞きしたことは確かだ。数多の出会いと別れがそこにあった。学んだことは胸から溢れるほどにあった。
 けれど、こうして考えると、自分のしてきたことが酷くちっぽけなもののように思える。何があっても生き抜くと決意をしたあの日から、何か変わることは出来たのだろうか。
 今はもう、ただ生き長らえる無力な老人でしかない。
 風の唸り声は、あるとき糾弾となる。数多の願いを背負って、一体そのいくつを叶えることが出来たのかと。
 そうだな――と喉の奥で呟く。人間として生きるだけで精一杯だった俺に、出来たことは多くない。そう考えると、胸が苦しい。

 誰かに呼ばれた気がして、薄っすらと目を開く。部屋は常闇に落ちている。きっと深夜だろう。嵐は最後の猛威を大地に振るい、空を駆け抜けていく。春の夜明けまではあともう少しある。
 誰かが寝台の淵に腰掛けていた。
 青い双眸が、闇の中からこちらを見つめている。
 リュナだろうか。でも、灯りをつけないなんておかしい。
 こちらの疑念を察知したかのように、ふわっと光が舞った。
 褪せた瞳に強すぎる筈のそれは、優しく、暖かなものとして映る。
 とろけた黄金が波打つ様を思わせる金髪が輝いているのだと知ったとき、俺は、じっとそいつと見詰め合った。
 白いケープの下に覗く濃紅の上着と黒のスカート。胸に下がる学年章。懐かしい服を着ていると思う。
 そいつはこちらを見下ろしたまま、悪戯っぽく笑ってみせた。しゃらしゃらと長い髪が揺れる。
 久しぶりだな――そう言おうとしたけれど、言葉にならない。するとそいつは目を伏せて頷いた。燐光が、ふわふわと闇を舞う。
 胸に抱えていたものが溢れ出しそうになる。問いかけてみたくなる。この生に元から意味など求めてはいない。けれど、本当に走りきることは出来ただろうかと。
 そいつはそっと目を細めて笑った。あのときと変わらぬ笑い方だった。
 何故だろう。心が震え、涙が溢れそうになる。
 腕が伸びて、頬に触れてくる。白いふっくらとした指の仄かな温もりが、心を少しずつ溶かしていく。
 嵐の音が、ゆっくりと遠ざかる。ああ、春がやってくる。始まりの春は、いつだって光の中にある。絶望も苦しみもかき消してしまう、残酷で、そして優しい光の中に。
 鉛の細棒のようになった腕をもたげて、それに触れようとする。こんな体では、その動作だけでも酷く辛い。
 けれどそいつも、俺の腕を見て、ふっと目を瞬いた。この枯れた肌に、光を見たかのように。
 頬を離れた指と俺の指が、音もなく触れる。
 セライムが笑う。けれど、その手が離れることはない。
 否。ずっと傍にいてくれたのだ。心の最果てから、青い双眸でこちらをひたむきに見つめていた。
 ――待っていてくれたのだ。
 ここがようやく辿り着いた場所なのだと思うと、淀みが解けるようだった。
 心がほろりと崩れ、溶けていく。
 触れた指の温かさに導かれるように、体の感覚が消えていく。
 優しい光。暖かな闇。双方に挟まれて、セライムが傍にいる。
 青い双眸が、とても近い。おやすみ、とその唇が囁く。
 意識が穏やかに、ゆるやかに、薄れていく。

 そうして俺は眠りについた。
 命が流れる音を、遥か遠くに聞きながら。

 さらさらさら。
 さらさらさら――。


 <完>


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