-黄金の庭に告ぐ-
<番外編>

ベルナーデ家に仕えたある男の話



 それは夏の盛り。雛菊のように瑞々しい朝を小鳥が歌い、富めよ栄えよといわんばかりの陽光が降り注ぐその日。
 僕は、身売りすることになりました。

 はい。身売りです。身売り、で御座います。
 体を売ります。いえ、いやらしい意味でなく。流石に男娼になる気はありませんよ、僕は。
 まあつまり、民から奴隷の身に下ったということです。サヨナラ自由。サラバ人権。そういう感じ。
 理由ですか? ええ、あんまり面白い話ではないんですがね。うちの父が商いに失敗したんです。借金山積み。怖いお兄さんが家に沢山いらっしゃいましてね。すごかった。『オラ金だせぇ』『ひええご勘弁を』『金がねえならそっちの娘をよこせエ』『ひええそれだけはあ』、そんな三流戯曲みたいな会話が飛び交いました。このままでは一家まとめて海に浮かぶのも時間の問題。
 そんなことになったら、胸の一つや二つ、痛むでしょう。しかも僕は兄と妹に挟まれた次男。余計な感傷を抜きに語れば、一家で一番いらない立場にいたわけで。仕方なかったんです。『僕を売ってお金を作って下さい』『そんなことできるわけ』『しかしこのままでは』『そんな、ああ神様』以下略。
 そういうわけで、僕は売られることになりました。
 哀れに思う人がいるかもしれませんが、僕自身あまり悲観にくれることはありませんでしたね。国の采配の為に世は公正ですが、平等ではありません。弱いものは喰われるのが宿命というもの。才があれば奴隷は貴族にもなれますが、逆もまた然り。僕が売られたのも、僕らが人として劣っていた為です。そう思えば諦めもつくというもの。人生色々、男も色々。
 そして父と兄の複雑な視線、母と妹の涙に見送られ、僕は奴隷になったのです。

 さて。奴隷、と聞いて、あなたは何を思い浮かべるんでしょうね。満足に食べ物も与えられないやせ細った姿? ぼろきれを着せられて、鞭打たれて働いている様子? ああ、まあ、そういう人もいないこともないですけど。でもね、ちょっと考えてみて下さい。
 あなたは馬を飼っていると仮定しましょう。あなたはその馬をズタボロにして死ぬまでコキ使いますかね。何かあると殴って蹴って唾棄をして? いいえ。大多数の人が、それなりに大切に扱うんじゃないかと思うんです。
 奴隷は人ではありません。馬や荷車と同じ、物です。けれど、使い捨てにできるほど奴隷だって安くないんです。馬や荷車の何倍も有能ですからね、この『物』は。
 それに、人には虚栄心があるでしょう。自分の馬に手入れをするように、奴隷もまた手入れされます。必要であれば貴族と同じ服を着て、立派な教育を受けさせられます。そうでなくたって、長期間の仕事に耐えうるためには、それなりの管理が必要なんです。病にかからぬよう清潔を保たせ、養分を与え、体力と知力を維持させる。結構大変なんです、奴隷を使うってのも。それに、芸を持つ奴隷なんていったら僕みたいなのよりもべらぼうに高い金がつく。下手すれば豪邸がたつほどの金が一人の奴隷にかけられることもあるんです。そんなのにすぐに死なれたら困るわけで、だから主人も色々大変。すごいですね、奴隷市場。流石は古代から連綿と続いてきた文化。健康的な男子という以外に取り柄のない僕は、茫漠たる世界を前に、ただただ矮小なる我が身を感じ入るばかりです。はい。

 ええと、前置きが長くなってしまいましたが。先に申し上げた通り、僕は健康な男子として割と普通の値段で売れました。奴隷商人は町から町へと渡り歩き、奴隷の調達と販売を同時にこなしています。僕を買い上げた商人は、僕の境遇を親身になって聞いてくれました。『あっそう、よくあることだね』と爽やかなコメントを残し、彼は広場に向かいました。広場には捨て子が多いのです。そのままにしておくと彼らは犯罪で生計を立てるようになるので、奴隷として徴収します。まあ、残酷なことかもしれませんが。しかし、もし彼らが盗賊になってひっ捕らえられた場合、闘技場で魔物に生きたまま食い殺されるのですから、簡単に彼らを幸と不幸に分けることは出来ません。色んな人生があると思います。
 僕はその後、他の何人かの商品たちと共に、何日も馬車に揺られることになりました。食事は贅沢でないものの、必要最低限に与えられます。その間、僕は他の奴隷たちと互いの境遇を語らいました。僕の話を聞いて『ふーん、よくあることね』と微笑んだ少女は、舞の特技を持っていました。それだけで僕の倍くらいの価値があります。酒場で働いていたそうですが、奥方に主人との仲を疑われて売りにだされたとか。『つっても、ぶっちゃけあの男他に愛人が八人くらいいたしアハハ』と楽しげに語る彼女はきっとこれからも強かに生きていくのでしょう。
 彼女は次の町で、割と大きな酒場の主人に買われていきました。
 さて、僕はというと、朴訥な男子であった為かイマイチ目立たず買い手がつきません。奴隷商人も困り顔で『オマエ、なんか特技とかないの?』と聞いてきましたが、妹がいた僕の特技といえば長い髪を高速で三つ編みにするくらいしかなく、商人と二人で溜め息をついたものです。
 次の町の広場についたとき、奴隷商人は知り合いを見つけたのか、そちらに向けて猛然と駆け寄っていったのでした。
「おお、お久しぶりで御座います! な、なに、覚えていらっしゃらない? 私、私です。奴隷商人のマイヤーです! へ? 知らない? そんなこと仰らないで下さい、とても良い奴隷がいるんですよ、見ていって下さい」
 商売って大変ですね。しみじみ思いながら、僕は商人からギラリとした眼差しを受けて背筋を伸ばしました。商人に誘われてしぶしぶやってきたのは、――びっくりしました、かなり身なりの良い壮年の男性でした。後ろに派手ではない、けれど豪奢な馬車をひいているということは、彼は奴隷なのでしょう。申し上げた通り、奴隷でも良家の奴隷は格式も高いのです。彼の主人はさぞや名のある人と思われます。きっと馬車に乗っている筈ですが、僕のいるところからだと足元しか見えませんでした。
「この通り、力もあり、器量もよし、病など知らぬ男です。顔はちっとばかし凡庸ですが、いやしかしお買い得ですぞ! 金貨二十枚で如何でしょう」
 商人からはさりげなく失礼なことを言われます。僕はムッとしましたが、それ以上にこの人は何者だろうと考えていました。髪に白いものも混じる男性は、けれど老境に差し掛かるにはまだ早い印象。背は高いのですが線が細く、質の良い長衣を隙なく着こなしています。やや色の褪せた思慮深い目は母なる海を思わせて、そこに聡明さと穏やかさを同時に生んでいるのでした。最も、今は商人の声に押されて苦笑気味ですが。
「いや、確かに健康そうな子だが。人手は足りているのでね」
「そこをなんとか! 良いでしょう、では十八枚で!」
 ああ。値切られる僕。
 しかし聡明そうな男性は落ち着きを崩しません。むしろ、この局面をどうやって逃げようか考えてる顔です。まあ仕方ありませんね、この人に買われるには、僕は格が合わないように思います。ちょっと悔しいけれど。
「む、ムウ、では――!」
 まだねばる気ですか、オジサン。
 段々と馬鹿らしくなってきて(本当は切実な問題なのでしょうが)僕は苛々してきました。だって、どんどんと僕の価値が下がっていくのですから。聞いていて愉快なことではありません。
「十六! 十六ですよ、聞きましたか!? これで税金も含めて――ええと、属州税と消費税で――」

「金貨十八枚と銀貨一枚、銅貨が十五枚です」

 僕はそう言いました。実家で商いをやっていた関係で、僕は幼い頃から計算の手伝いをしていたのです。こういう計算だったら、昔から得意でした。
 奴隷が自ら口を開くなど、本来はあってはならないこと。けれど、いらついていた僕は思わず声にしてしまったのです。これで僕が礼儀を知らぬ奴隷だと知り、男性は去ることでしょう。思った通り、彼は目を瞠っていました。
 ああ。もう、なるようになれです。真っ青になったり真っ赤になったりと忙しい商人が、ようやく声を取り戻しかけたそのときでした。
 馬車の中から、呼びかけがあったのです。

「セーヴェ」

 胃の底がすくみ上がるような、低い声でした。思わず姿勢を正してしまうほど。壮年の男性は、すぐに踵を返して馬車に寄りました。そこに乗っている人と、いくつかやりとりを交わします。無礼な奴隷だ、叩き切ってしまえとでも言っているのでしょうか。短い人生だったと思います。
 現実逃避を始めた僕の元へ、男性が再びやってきました。そして彼は先ほどとは打って変わった晴れやかな顔で、はっきりと言ったのでした。
「旦那様がその者を金貨二十五枚で買いたいと仰せです」
 ぽかん、と口を開いた僕と商人は、暫くその意味を理解することが出来ませんでした。
 ――まあ、そういうわけで。そんなわけで。

 遥かなる時代には黄金の庭とも呼ばれた豊穣の都ヴェルスにて。
 僕は、ベルナーデ一族当主、ヴェギルグランス・アウル・ベルナーデ様にお仕えすることになったのでありました。


 ***


 さて。自発的に声を発するなどという奴隷として言語道断クズ極まりない僕を買った奇特な主人ヴェギルグランス――周囲からはギルグランス様と呼ばれる方のことを、少し説明しておきましょうか。
 先ほど紹介致しました通り、この方は帝国属州都市(片田舎とも言います)ヴェルスの名門ベルナーデ家の現当主でいらっしゃいますが、四年前までは現役の軍人であられました。広大な国土を蛮族の侵入から守るために前線に立ち、その手腕と貫禄と女癖の悪さで名を帝国軍中に轟かしていらっしゃったそうです。本国の元老院議席を与えられる日と女に刺される日のどっちが近いだろうと、至る所で噂されていたとか。
 しかしギルグランス様は、――この辺りは僕もよく知らないのですが、四年前、五十三歳というご壮健な年齢にありながら、元老院への誘いを断って突然退役してしまったらしいんですね。まあ、色々あったんでしょう。塵にも等しき愚妹な僕には、その理由を推し量ることなど出来ません。
 現役を退き、故郷であるヴェルスに戻ってきたギルグランス様は、早速都市議会から招かれて、『是非キミの経験を生かして都市に尽くしてくれたまへ』と議会の席を与えられました。まあ仮にも元老院入りまで噂されたほどの方ですから、議会も顔を立てて下さったんでしょうね。本当に力を尽くすなんて思ってもいなかった。突然戻ってくるなんてきっと辛い軍務に疲れてしまったに違いない、のんびり議員でもやらせて穏やかな老後を過ごさせてやろうぜ、と。誰だってそんな感じでこの方を迎えたに違いないんです。
 でも、違った。
 何十年ぶりかに訪れた都市を視察したギルグランス様は『貴様らたるんどる』とぼやいた途端、鬼神へと変貌されました。
 すごかった(らしいです)。
 当時のヴェルスは国境からも遠く安定した土地にあったため、本国の目が中々向かない傾向にありました。そのお陰で行政は腑抜けて汚職横行、治安悪化、財政危機の三拍子、とにかく酷いことになっていたそうで。たるみきった都市議会でキレて火を噴いた(という伝説になってます)ギルグランス様は、軍で名を馳せたその辣腕をここでも遺憾なく発揮されました。崩壊寸前だった都市の財政を建て直し、落ちぶれた片田舎だったヴェルスに活気を取り戻させたのです。今やギルグランス様はベルナーデ家当主にして都市議会議員、都市の神祇官長まで務め、また女性関係も華やかであることから『ベルナーデ家の邪神』と恐れられる豪傑であらせられます。
 まさに、第二の人生ここに爆誕。

 ……神様。僕、すごい人に買われてしまったようです。

 さて、そんなベルナーデ家で僕を待っていたのは、本国の帝国図書館もかくやという膨大な書類で御座いました。
 はい。僕に任されたのは、ベルナーデ家の財務管理の仕事だったのであります。
 主人であるギルグランス様は、日夜馬車馬のごとく働いていらっしゃいますが、実は銅貨一枚たりとも報酬を受け取っていません。都市議会の議員や神祇官といった公の仕事は、貴族でなければ就けない代わりに無報酬が基本なのです。逆にそれだけの地位につく者として、公共施設への寄付や剣闘士競技の主催まで求められます。しかしそれでは一家が干上がってしまうので、僕たち奴隷が資産を管理しつつ投融資して家を支えるわけです。
 といっても、新入りである僕に始めから大仕事が待っているわけではありません。僕は商人の一家にいた折に培った計算能力を買われ、その為に帳簿をつける仕事を任されました。
 百年の歴史を持つ名門ベルナーデ家の屋敷内は、まさに戦場でした。
「おいっ、デリカ葡萄商組合の決済書明日までだぞ!?」
「来月に剣闘士競技主催!? だーっ、すぐに養成所に連絡しろ! 見積もり急げっ」
「モランダ製糸所の帳簿、数値間違ってんぞ!? 確認しろって言ったろうがーっ!」
「ひーっ!? 何この領収書!? あのオヤジ、また女に貢ぎやがって。ハゲちまえ!」
 ……なんか時折すごい不敬が聞こえてくる気がしますが、忙しくて気にしてなんていられません。
 けれど、賑やかなところでした。屋敷内には数十名の奴隷が肉体頭脳問わず労働に駆けずり回っています。奴隷同士の婚姻が認められている為、子供もいました。奴隷の子は勿論奴隷です。しかし彼らもまた、洗濯や調理など、自分の出来る仕事をこなして力強く生きているのでした。
 月に一度、ギルグランス様は家中の奴隷を集めて、一緒に食事をなさいます。それにも驚きましたが、何よりもその賑わいに僕は圧倒されました。奴隷と主人の関係にある筈が、彼らは平気ではしゃぎ、歌い、冗談まで口にするのです。老人たちは古い神話を語り、子供たちは楽器を鳴らして踊ります。ギルグランス様もとても楽しそうで、普段は穏やかで物静かな奴隷頭のセーヴェ様でさえ、酒を酌み交わしては肩を揺らして笑っているのでありました。

 何故でしょうね。正直なところ、僕は拍子抜けしていました。
 奴隷は人ではなく物です。いいえ、人になることの出来なかった物といいましょうか。この国では、自らの判断と行動の自由を何よりも重んじています。故に、主人に隷従する奴隷は人として認められないのです。奴隷は自らの意思をもつことなく主人の命に従い働き、主人に尽くすのですから。
 しかし、そうして十分に貢献した奴隷は、主人によってその身分から開放されるのが慣わしでした。努力は人を強くします。そういった強い者には報いと機会を与える。それがこの国に培われた風習なのです。才ある奴隷ならば、すぐにでも身分を解放されて、主人の後継者に据えられることだってあります。だから僕も、地道に働くことでいつかまた身分を得られるものだと思っていましたし、そういう人生を想定していました。何よりも、奴隷には自由がないのですから。
 そう。僕の疑問はそこにありました。才を認められて開放されることこそ奴隷の夢だというのに、何故ベルナーデ家の奴隷たちはこんな表情をしているのでしょう。彼らは奴隷としての自らの人生を、苦労だらけだと笑いながら楽しんでいる様子すらあるのです。
 僕が自由民であった頃、僕の家にも奴隷がいました。彼らは必要がなければ喋ることもなく、ただ、僕たちの命令を聞いてそれに従うだけでした。共に家に住んでいても、同じ食卓につくことはありません。父と酒を飲みながら今後の予定を語らっていることはありましたが、それもこんなに賑やかではなかったのです。
 確かにギルグランス様には不思議な魅力があります。やること無茶苦茶で口が悪くて勝手気ままですぐに仕事を抜け出して女性と遊びに行くような方ではありますが、家の者を集められたときの挨拶は朗々として心に深く響き、不敵な笑みはどのような嵐も打ち払ってしまうような力強さがあります。都市の民からも、この方が戻ってきてからは都市に活気が生まれたと、苦笑されながらも慕われていらっしゃいます。
 けれど僕の望みは、自由民の地位を得ることです。良い経験を積ませて頂いて、いつかは自立する。自らの足で立ち、自らの力で生きることは、この国では至高の美徳です。故に奴隷は卑しい存在なのです。なのに、なのに――。

 まあ、そんなことを考えていても取らぬ狸の皮算用というもの。先のことはよくわかりません。今はとにかく、ベルナーデ家に尽くすことで早く『人』として認められなければ。
 僕は思考を無にして、ひたすら働きました。
 事件は、暫くの日々が過ぎた頃に起きました。
 ある織物商会が後ろ暗い商売に手を染めて、ベルナーデ家と繋がりの深い染物職人衆と問題を起こしたのです。盗賊まがいの脱走兵を雇った織物商会は、取引に法外な値段を持ち出し、断った商会を次々と襲っては私腹を肥やしていました。そしてその魔の手がついに、ベルナーデ家の傘下にまで届いたのです。
 ギルグランス様は早速調査に乗り出しました。襲われた職人たちには、ベルナーデ家から多額の融資がでていますから、放っておくわけにはいかないのです。
 すぐに報告が届きました。
 僕はそれを読んで、ぞっとしました。
 問題の商会の名簿に、父と兄の名前があったのです。


 ***


 黙っていれば良かったのかもしれません。しかし動転した僕は、その場で友人の奴隷にそのことを話してしまったのです。その奴隷は、奴隷頭であるセーヴェ様の息子でした。しかも、僕がそれを話したとき、回りには他にも奴隷がいたのです。
 事実は、瞬く間に広がりました。
 僕の父と兄が、僕の主人の傘下にある者たちに罪を働いたのです。
 僕は、自分の命運が尽きたことを悟りました。ギルグランス様はベルナーデ家に渾名す者を許しません。そんな者を身内に置く奴隷が、ただで済まされるわけがないのです。良くて家を追い出されるか、悪くて見せしめに殺されるか。取引の道具に使われるかもしれません。主人は奴隷を自由に斬り捨てる権利を持っているのです。
 すぐにセーヴェ様から呼び出しがかかりました。死を覚悟して、僕はそこに向かいました。奴隷頭のセーヴェ様はギルグランス様の幼少時からの腹心であるため、こんな下っ端の奴隷が話す機会などそうそうありません。そういえばこの方と二人で話すのは、僕がこの屋敷に買われてきたとき以来だったかもしれません。
 セーヴェ様は相変わらず静まり返った様子で、執務机に向かっていました。僕が来たことを告げると、セーヴェ様は立ち上がって僕を正面から見据え、簡単な事実確認をなさいました。ただただ茫洋と頷く僕にそうして向けられた言葉は、思いの外軽やかでした。
「自分がこれからどうなると思っているのだ?」
 どきりとして、僕は項垂れました。僕はもう、この家にとっての敵なのです。そう思った途端、疑問を感じながらも楽しく過ごしてきた日々のことが思い出されて、胸が苦しくなりました。
「……旦那様の御意のままに。死ねと言われれば死にます」
 出来れば楽な死に方が良いですけど。そんなことをもごもごと言うと、セーヴェ様は太い眉を持ち上げました。
「当たり前だ。我らは旦那様の命を絶対とする、死ねと命じられたなら死なねばならぬ。お前はそのようなことも忘れて仕えてきたのか」
 詰問するような口調でした。泣きたくなって、僕は唇を噛みました。そう、奴隷はそういうものなのです。
 僕は結局のところ、人生を甘くみていたのです。奴隷の身に甘んじたところで、気分は自由民のままだった。奴隷が負うべき義務から目を背け、自分に不幸など降り注ぐわけがないと思って、何も考えずに生きていたのです。思考を停止させ、ただ漠然と働くだけだったそれを怠慢と呼ばずに何と呼びましょう。自ら考え、自ら立つことこそ自由民である証拠というなら、僕の心はとっくに奴隷並だったのです。
「旦那様はお前にそのような命令を下すと思っているのか」
 俯いたままの僕に、セーヴェ様は厳然と問いかけました。
 ギルグランス様はこの件に関して、眉を潜めて不快感を露にしていたものです。自由に生きる振りをして、必要があれば働くことを厭わないギルグランス様は、襲われた職人たちの元へ赴き、必ず罪人は裁くと約束されておりました。
「……旦那様はお怒りでいらっしゃいます。身内に罪人を抱える奴隷を、ここに置いておくわけにはいかないでしょう。僕がここにいると知れば、職人たちも嫌がるでしょうし」
 セーヴェ様は、何故か鼻で笑います。
「本当にそう思うか。旦那様がお前を処分すると」
 僕は頷きました。頷くしかありませんでした。
「だって旦那様は」
「呼んだか?」


 主人を見て悲鳴をあげる奴隷って、この世に何人くらいいるんでしょうね。
 いつの間にか僕の背後に立っていたヴェギルグランス・アウル・ベルナーデ様に、セーヴェ様は涼しい顔で一礼をしました。僕は既に意識を半分失っていました。
「セーヴェ。何故この奴隷は面白い顔をしている?」
 ギルグランス様は、美しく着こなした長衣の裾を払って悠然と首を傾げています。セーヴェ様は、嘆息して首を振りました。
「それよりもお話したいことがあります。この奴隷の件で」
 それからのことは、正直あまり覚えていません。ギルグランス様は気楽な様子で最後まで話を聞いていました。へえ、とやや驚いたように相槌を打ったギルグランス様は、突然僕を見下ろしてきました。背の高い方なのです。
 けれど、この時のことだけはきっと一生忘れることはないでしょう。ギルグランス様の眼差しは鷹のように鋭く底光りしていました。成人すると同時に鉄の軍規で知られる帝国軍に身を投じ、属州出身者にとって頂点の地位にも等しき本国元老院の議席すら噂されたお人の顔立ちは、老成された威厳に満ちておられました。
 きっとこの方は、己の誇りに恥じぬ人生を送っていらしたのだろうと。その時は何の理由もなく、ただそう感じたものです。
 そして同時に、ただ流れに任せてぼんやりと生きていた矮小な己の姿が、鏡となったその瞳に映っているのを見たのです。
 そこにいた僕は愚かで哀れでちっぽけな存在でした。世界が一つの大きな細工物だとしたら、僕は誰ともかみ合っていない小さな歯車でした。そう。大した志もなく、なんとなく民に戻ることを夢見ていた僕の人生は、何の意味もないただの空洞だったのです。
 そんな僕に降り注いだギルグランス様の問いかけは、不思議なものでした。
「神の名にかけて正直に答えろ。お前は父や兄を尊敬しているか」
 僕はその眼差しを受け、礼も忘れて立ち尽くしていました。心臓を剣で貫かれた想いでした。僕の思い。それを誰かに伝えることも、自分に伝えることでさえ、僕はいつの間にか忘れてしまっていたのでした。しかしギルグランス様の力強い眼差しの中で、心が言葉を押し返そうとしたのです。
 著しく思考力が落ちていた僕は、だから本気で正直に答えてしまったのでした。
「は、はい。そそっかしくてドジが多いんで商人としては駄目だと思いますが、罪を犯すような人たちだとは思っておりません。仕事を抜きにすれば尊敬しています」
「……」
 ギルグランス様は、えっ、という顔で止まり、呆気に取られてこちらを見下ろしていました。セーヴェ様ですら、頬をひきつらせています。僕も自分の爆弾発言を自覚して、真っ青になりました。なんてこと言ってしまったんだ僕は殺される殺されてしまう。
 しかし次の瞬間、ギルグランス様は大笑いなさったのでした。僕はわけが分からず肩を窄めるしかありません。
「中々胆の据わった奴だ」
 呆然とする僕の前でひとしきり笑ってから、ギルグランス様は長髪を払って僕の肩に手を置きました。
「分かった。あとは任せておけ」
「どうなさるおつもりですか?」
 セーヴェ様の問いかけに、はらはらと手を振って踵を返してしまいます。
「島の連中に頼めばなんとかなるだろう。先ほど、尻尾を掴んだと報告がきた」
 長衣を優雅にさばきながら、ギルグランス様は部屋を出ていってしまいました。窓から風がひゅうと吹き込んできます。セーヴェ様はそっと肩をすくめ、そういうことだ、とどういうことか全く分からない台詞で場を閉めてしまいました。


 ***


 事件の顛末は、数日後、セーヴェ様の口からもたらされました。
 再び呼び出された僕は、驚いたことにそこで父や兄と再会することになりました。なんと、ギルグランス様が捕らえられた商人たちの中から二人を助け出して下さったのです。
「彼らは他の商人に脅されてこの件に関わっていたらしい」
 二人と互いの無事を喜び合った後、セーヴェ様は詳しい経緯を教えてくれました。
 そもそも僕の一家が商いに失敗したのも、父が今回の事件の首謀者に騙されたことに端を発していたそうです。一家は家財と僕を売ったものの、泥沼から完全に這い上がることはできず、ずるずると悪事に加担する羽目になってしまったとか。しかし悪事といっても、やったのは下っ端仕事も良いところで、逆に父や兄の失敗が事件の解決の糸口になったとかなんとか――。まあ、人生色々ですね。
 とにかく、無事で本当に良かった。母と妹も元気だと聞いて、僕は全身から力が抜ける思いでした。一家が報われなかったら、僕が奴隷になった意味がありませんから。
 しかし、ギルグランス様は何故父や兄を助けてくれたのでしょう。本来なら、二人は他の商人たちと共にひっ捕らえられている筈なのです。
「二人の罪が軽かったのもある。だが、真の理由はお前だ」
 セーヴェ様は僕にそう言いました。
「良く聞きなさい。旦那様はお前を金貨二十五枚で買われた。お前はその時点でベルナーデ家のものなのだ。そして旦那様は何があっても決してこの家のものを見捨てはしない」
 そのときセーヴェ様がいった『もの』が、『物』なのか『者』なのか、僕には分かりませんでした。けれど何か熱いものに重く胸を叩かれたような、そんな気がしていました。セーヴェ様は笑み皺を刻んで、静かに続けます。
「我々奴隷衆は、ベルナーデ家の剣であり盾である。この命は全て旦那様のもの。しかし迷いなくこう断言するのは、我らが旦那様の言葉と振る舞いを心より信じているからだ」
 口も挟めぬ僕に向けて、セーヴェ様は最後に苦笑してみせました。
「無論、我々はそれを愚直な美の追及の為に行うのではない。そちらの方が賢いと知っているだけだ。義務で従う者と忠義で従う者とでは、働きは天と地ほどに違うだろう。故に旦那様は我らの導き手であり、救い手であって下さる。我らは旦那様の恩義に応えるだけだ」
 後から聞いた話ですが、セーヴェ様は本来とっくにギルグランス様より自由民を名乗ることを許されているのだそうです。しかし幼少時からあの方に付き添ったセーヴェ様は首を横に振った。奴隷として、あの方にお仕えし続ける道を選んだのです。自立を美徳とするこの国で、それはきっと蔑まれることなのでしょう。盲目的な服従は、誇りを持たぬ人の証とされるのです。
 しかし、何故でしょう。僕にはそんなセーヴェ様が、これ以上なく誇り高い志をお持ちになり、その足で自立されているように見えたのです。

 ギルグランス様はセーヴェ様を通じて、僕にある案を持ちかけてきました。
 元々父が商売に失敗したのも例の商会に引っ掛けられた為だそうですから、そんなことで売られた僕を哀れに思ったのでしょう。ギルグランス様は僕に、元の家に戻っても良いと言いました。銅貨一枚の要求もなしに。
 どうする、とセーヴェ様に聞かれて、僕は迷いました。以前の僕でしたら、即答で頷いていたでしょう。だって、自由が手に入るのです。奴隷の身分から開放されるのです。これ以上の人としての喜びがあるでしょうか。父と兄も喜び、是非そうしろと言いました。
 けれど、脳裏には何故か、自由だったころの記憶よりも、この屋敷での暮らしばかりが思い起こされるのです。戦のような毎日。ギルグランス様が持ち込んでくる無理難題。呆れながらも解決に奔走する奴隷たち。ベルナーデ家に敵は多くとも、仲間も多いのです。そして忘れられないギルグランス様の眼差しや、セーヴェ様の佇まい。その言葉。
 僕は。
 僕は――。


 ***


「おいラッディ! 生きてるかー!?」
「死んでいます」
 奴隷のピートはいくつもの巻物を抱えて奴隷執務室の一つに入り、机に突っ伏して伸びている若い奴隷を見やった。机には大量の書類や墨壷に数え玉、覚書用の蝋版が散乱し、昼だというのに消し忘れられた蝋燭がぼんやりと炎を揺らしている。まさに主の退廃ぶりを如実に表しているというものだ。
「大丈夫、見た感じまだ冥府の扉は開いちゃいないよ。ほれ、今度の図書館への寄付金概要」
「また寄付ですか!?」
 がばり、と悪鬼のごとく起き上がったラッディを見て、ピートは自分が先輩格であることを忘れてややのけぞった。ラッディの形相は今にも冥府の扉をこじ開けんばかりであったのだ。いや、むしろ扉をこじ開けて冥府の神をその身に宿らせたという方が正しいだろうか。
「何? なんですか、なんということ!? まーたあの人はポンポンポンポン金ばっかだして、こちとら火の車なんですよ皆で揃って飢え死にしたいんですか!?」
「お、おう」
 凄まじい剣幕に、思わず相槌を打ってしまうピートである。
 数ヶ月前に買われてきて内務の一端を担うようになったこのラッディという男は、一度奴隷の身分から解放される機会に出会ったのにそれを蹴飛ばしてベルナーデ家に居座った変わり者である。しかし、そんなラッディをピートは気に入っていた。元は自由民だったというが、打たれ強く向上心がある男なのだ。最近はすっかりベルナーデ家の家風に染まり、心身共に口まで逞しくなりつつある。
「い、いや、まあそれだけお前の腕を信用してるってことだよ」
「信用!? 信用と仰りました今!? これは嫌がらせっていうんです、それとも殺すつもりなんでしょうかねだったらいっそ死ねと言って下さいこの墨壷飲んだら死ねるですかね!?」
「……」
 ピートはぽりぽりと頭をかいた。まあ、こんな感じでちょっと変わった奴隷なのである。
「お、落ち着けよ。一段落したら飲もうぜ」
「飲みますよ。家が破産するまで飲んでやる」
 いやそれで困るのお前だろ、という突っ込みを飲み込んで、ピートは踵を返した。自分も自分で忙しいのである。職務に励む後輩の呪詛を背後に聞きながら廊下に出ると、列柱回廊の合間から穏やかな風が吹き込んでくる。そのとき、ラッディの呪詛に紛れたある呟きが耳に届いて、ピートは足を止めた。
「全く、仕方のない方だ」
 ピートは思わず笑みを浮かべた。奴隷たちはいくらあの主人に苦労させられようと、最後は苦笑と共にそう呟いてしまう。あの主人には、人にそうさせる何かがあるのだ。軍務の経験によるものか、それとも運命の神に愛されているためか。そんな主人の元には不思議と癖は強いが粘り強い人間ばかりが集まってくる。ラッディもその一人だ。彼の仕事ぶりは今やベルナーデ家に必要不可欠なものになりつつある。
「まあ、すごいお方なんだよな」
 あれであともう少し女癖を直し、更に年齢に相応しい行動を身につけてホイホイ家を抜け出したりせず買い物を控えて不遜すぎる言動を直しついでに危ない橋を面白がって渡ろうとする癖を直して貰えれば言うことはないのであるが。それはしかし、ないものねだりなのかもしれない。
 今日も家は平和だ。職場は普段から戦場だし、たまに恐ろしい事件に巻き込まれることもあるが。幸せといえば幸せだ、ここの住人たちは。
 今日はこれから主人の供につかねばならない。一呼吸ついたピートは、足早に歩き出した。




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