-黄金の庭に告ぐ-
<第二部>1話:娘、襲来

05.「アレ」の娘



 虎の顔色は赤や青、そして白など次々と変わった。大混乱に陥っていることに間違いはない。いくら狼が普段は被り物をしているとはいえ、親友である虎はその素顔を知っているのだから。
「て、てめえ、グズギールはどうした!? ――ひっ!?」
 虎が腰を抜かして尻餅をつく。彼の喉元に、目にも止まらぬ速さで細剣の先が突きつけられたのだ。
「この被り物の前の持ち主のことですか? あの下衆でしたら、街道のいずこかで屍を晒していますわ」
 薄く色づいた唇を優雅に動かし、娘は言い切った。
「街道で休憩していたところ、侍女に狼藉を働こうとしたので。わたくしが斬り捨てました」
 運命の女神のような、完璧さと残忍さの合間に一片の愉悦を含めた、恐ろしい微笑みだった。虎はますます顔を蒼白にする。
「しかしこの被り物、拾い物にしては中々気に入りました。お陰でこの都市での活動も容易になりましたし」
「な――何が狙いだ」
 掠れた声で、虎はようやく問うた。娘は笑みを消して返した。
「一度だけ問います。あなたは己の悪行を改めると誓いますか?」
「は、何を――がっ!?」
 虎の顎が鋭く蹴り上げられる。
「意見を求めているのではありません。悔い改めるか死に晒すか選べ、と言っているのです」
「は――」
 恐怖と絶望に口を何度か開け閉めした虎は、人が変わったように眉を下げ、早口に申し立てた。
「わ、悪かった。金輪際こんなことからは手を引く。元々グズギールの奴に誘われてやってたんだ。ほら、奴は本当にクズだったろう。だから、この通りだ、命だけは」
 虎の醜態を、暫くの間、温度のない眼差しで眺めやっていた娘は、不意に溜息をついた。
「ひとつ。あなたの危機において、あなたの手下は誰もあなたの為に戦おうとしない。ひとつ。あなたの欺瞞に溢れた弁舌は、まるで聞くに堪えない」
 次の瞬間、風が唸ると同時に、周りの手下どもの息を飲む音が聞こえた。娘の剣が閃き、虎の口を水平に切り払ったのだ。
「この程度で済むことを神に感謝なさい」
 意味不明の悲鳴をあげながら、虎はその場に蹲った。舌が切り取られており、二度と人語を喋ることはできないだろう。
 娘はつまらなそうに振り返り、歩き出した。あまりの出来事に動くこともできぬ無頼たちの中を、悠然と。
「そうだったわ。一つだけ言っておきます」
 不意に娘は立ち止まった。
 そしてくるりと振り向いて、にこやかに告げた。
「この建物、もうすぐ崩れましてよ」
 開け放たれた扉をくぐり、回廊を歩いていく。
 同時に、ぱらぱらと天井から砂がこぼれ落ちてきた。ごうん、と低い唸りをあげて、致命的な衝撃が建物全体を揺らす。
 まさか。そう思った瞬間には、誰もが悲鳴をあげて入り口へと殺到していた。

「これで全員だなこの野郎!?」
「はいもう三度も確認しました大丈夫ですよさっさと終わらせてください!?」
 異様なヤケクソ感を漂わせつつ、フィランとジャドが喚いている。オーヴィンは虚ろな眼差しで魔法の生成に勤しんでいた。この柱を壊せば、建物は倒壊する。彼は昨晩から明け方まで、敵の目を掻い潜りながら必死で基礎となる柱を探していたのだ。
 途中でフィランとジャドが合流して、捕らえられていた民を逃した。狼との最終決戦を前にした虎は、建物内の手下を自らの元へ集めていたため、隠密に事を遂行することができたのだ。
 それらは全て、一人の娘の指示に従ったものである。
「よし」
 オーヴィンが最後の魔術を放ち、柱に大きな亀裂を走らせた。六本ある柱の全てに、こうやって工作をしていくのは、地味な割に疲れる作業だったのだろう。オーヴィンの目の下には濃い疲労が浮いている。精神的なものも大きいのかもしれないが。

 三人が建物を出ると、既に崩壊は始まっていた。無頼たちが次々と飛び出してくる。虎の毛皮を被った男も、転がるように出てきた。
 だが、肝心の娘が出てこない。
「オイ、まさかってこたぁねぇよな……?」
 ジャドが呟いた瞬間であった。


 その娘を見たある者は、何故彼女が女に生まれたのだろうと悲嘆したものだった。
 もし男に生まれていれば、その大器を以ってして帝国を率いる英傑になったことだろうと。

 その娘を見た別の者は、彼女が女に生まれてくれて本当に良かったと安堵したものだった。
 ――もし男に生まれていれば、帝国に大波乱を齎す鬼神となったに違いない、と。


 ざり、とサンダルが大地を咬んだ。娘は、降り注ぐ砂礫にまるで怖じることなく、悠然と進む。
 彼女が建物から足を踏み出した瞬間だった。轟音と共に背後に瓦礫が降り注ぎ、あっという間に建物は倒壊した。
 何事かと集まっていた群衆の誰もが、口をはくはくと開け閉めする。
 土煙の中から再度現れた娘は、変わらずに二本の足で立っている。己の幸運を誇るつもりもないようだった。否。それが当然と思っているのか。
 ただ彼女は、周囲を見渡して微笑んだ。
「狼虎団は滅びました」
 呆然とする人々に、事実がさざ波のように伝っていく。
「わたくしにできるのは、ここまでです。後はあなた方次第といったところでしょう。わたくしに感謝するも憎悪するも自由です」
 朗々と響く声で、娘は続ける。
「ただし、貴族も民も関係なく、今こそ誇りを思い起こすべきであることを告げておきます。誰かが変えてくれるなどという怠惰を捨てることです。金がないなら、作る方法を考えなさい。働く先がないなら、自らで作りなさい。栄えある帝国の内にあって、子供らの声が聞こえてこない都市など、わたくしは許しません」
 それでは。そう一礼した娘は、煙の中へと去っていく。

「あれが……」
 端の方にて、青褪めたフィランは、呆然自失の体で呟いた。
「あれが娘御のヴィーナ、ですか」
「変わってない……全然変わってない……」
 オーヴィンもまた、顔を手で覆って何度も呻いている。


 ***


「ヴィーナ様!」
 フィランたちを案内した侍女は、娘を見るなり駆け寄った。その横顔に、安堵の笑みが広がっている。
「サミア。ご苦労だったわね」
「ご無事で何よりです」
 サミアと呼ばれた侍女は嬉しそうに頭を下げた。フィランたちの前での怯えようを思い出すと、若干傷つくほどである。
 娘――ヴィーナは改めてフィランたちに向き直った。
「出迎えは、お父様の命ですの?」
「ああ、そうだよ。帰りが遅いって心配してる」
「なんてこと。あなたたちには足労をかけましたね。全く、お父様ったら。お年を召して肝が小さくなったのかしら」
 当人が聞けばショックで卒倒しそうなことをさらりと口にして、ヴィーナは髪を掻きあげた。
 そんなヴィーナを直視できないのはフィランだ。知らかなかったとはいえ、色々とまずい狼藉を働いた気がする。特に胴体を抱えたときのあの感触。あれは、やはり。
「そこの槍使い」
「はう!?」
 ティレにどう顔向けをしようと青くなっていた槍使いは、恐る恐るそちらを向いた。陽光を吸い込んで輝く瞳が、フィランを見上げている。
 その顔が、見とれるような鮮やかさで綻んだ。
「中々良い腕前でしたね。半端な使い手であれば、その心臓刳り貫いてやるところでした」
「きょ、恐縮です」
 何やら恐ろしいことを言われている気もするが、それどころではないフィランである。例の件は戦いの途中のことで覚えていないのだろうか。するとヴィーナは悪戯っぽく口の端を吊り上げ、
「その腕に免じて多少の不届きは許します。今後は気後れの必要などありませんよ」
「ひ!?」
 しっかり覚えられていたようだった。
「なんだよ、不届きって」
「うるさいですジャド黙っててください!?」
「オイいてぇぞなんだテメェ!?」
 揉み合う二人をヴィーナは面白そうに眺めると、踵を返した。真っ直ぐに伸びた髪が、美しく翻る。
「さあ、お父様が心配されているそうだし。急いで帰りましょう。まずは着替えなくてはね」
 はい、と嬉しそうに答える侍女を引き連れて、ヴィーナは颯爽と歩いていく。


 ミューレイの再生のためにまず動き出したのはシニオンであった。
 彼は森に隠されていた子供たちを親の元へ返し、自警団の再組織を訴えた。以前より都市を走り回っては心を尽くす少年の姿に心を打たれていた人々が、それに賛同した。閉じこもっていた人々は、まるで悪夢から覚めたように動き出した。
 無論、都市の根本的な問題が解決したわけではない。新たな産業を生み出さねば、再び狼虎団のような凶悪な無頼に支配されてしまうだろう。またシニオンの父親のような、利己的な貴族も数多い。
 しかし、その行く末は都市の民次第なのだと、ヴィーナは語った。そして、自分たちが差し出がましいことをすべきではないと。
 夜も眠らぬ様子で走り回るシニオンを案じながら、ベルナーデ家の面々は帰路についたのであった。
 これから向かうヴェルスにあっても、帝国の動乱の中では、強かに生きねばならないのだ。


 ***


 遅い。流石に遅い。
 もはやギルグランスは眼差しでセーヴェに問うだけだった。セーヴェも無言で首を振って返す。無論、「まだ帰らないのか」「はい、まだです」のやりとりの省略形である。
 今日も最低限の仕事を終えると、それ以上手がつかなかった。トランヴェードに「貴様、娘の件で政務が疎かになっているのではないか」と嫌味を言われたことがギルグランスの不機嫌さに拍車をかけている。うるさい。だって、気になるものは気になるではないか。
 最後に娶った妻は、身体が強くなかった。今考えると、普段から寝台の上にいることが多かったように思う。戦場での指揮を常としていたギルグランスに、彼女を支えてやれたという自覚はない。
 思えば、娘にしても同じであった。自らの生い立ちに思い悩み、色々と問題を起こしたということは耳に挟んでいた。しかし養育は他の者に任せっきりで、面と向かって話したことも多くはなかった。ギルグランスの眼は、ただ帝国の行く先へと向いていたのだ。
 娘は、そんな父親をどう思っているのだろうか。

 不意に、玄関の方が騒がしくなった。
 セーヴェが反応し、同時にギルグランスも歩き出す。波打つ鼓動を呼吸で鎮めながら、一歩一歩を前へと進む。
 門前に馬車が到着していた。そこから降りた貴族風の娘が、丁度ヴェールを脱いで、奴隷へ渡すところであった。
 白い布の下から横顔が現れて、陽光に照らされる。
 ギルグランスは思わず息を呑んだ。
 娘が――こちらに気付く。

 ぱっと表情を輝かせ、娘はこちらに向き直った。癖のない髪は、明け方の空を思わせる瑞々しい橙色。陽の光を吸い込んで、鮮やかに、真っ直ぐに、下へ伸びている。
 しなやかな足を踏み出し、見とれるような足取りで、近寄ってくる。長年の空白を一息で埋めるように。不安も苛立ちも、何もかもを吹き飛ばすように。
 自信をたっぷりと込めた瞳。長い睫毛。細くも強かな意思を感じさせる眉と鼻梁。そして、軽やかに微笑む口元。その身にぴったりと合った、ひだの美しい衣服。風の中で凛と咲く一輪の花を思わせる。
 ギルグランスの目の前で、娘は立ち止まった。
 その手を胸に当て、挨拶の形をとる。
「ヴェルスに名高きアウル一門。ベルナーデ家当主ヴェギルグランスが娘、ヴィーナリティカ」
 娘は、そう軽やかに名乗った。
 その瞳に、きらきらと輝く再会の喜びを込めて。
 その唇に、溢れ出るような笑みを形作って。


「――ただいま戻りましてよ、お父様!」


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