-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>1話:僕たちは駆け落ちをした

01.恋人たち



 僕たちは駆け落ちをした。
 その事実をフィランはいつだって鉛のように重たく、それでいて闇に灯された一抹の光のように思っていた。故郷を家族を友を、積み重ねてきた大切なものを投げ打って、しかし彼は後悔をしていなかった。今となって彼を庇護する者は誰一人としていない。そう、誰一人として。それでも彼は微かな力で握り返してくれる彼女の手を、そして彼女を守るべき自分自身を守るのだと、若い瞳に燦然とした意志を宿していた。
 鈍色の大気が冷たく世界を濡らしていく。降り注ぐ雨の弱さからして旅を続けることは可能であったが、彼はそうせずにいた。連れの存在が、今は重たい枷となって彼をここに縛り付けているのだ。フィランは立ち木に力なく身を預ける恋人の傍らに膝をついて、不安げに表情を揺らめかせる。
「ティレ」
 彼女の淡くけぶる若藤色の髪は顎の辺りで切り落とされ、その上雨よけも兼ねてフードが被せられている。こう薄暗い場所では分からないが、明るいところに連れていけばその顔色はとても健康的には見えないだろう。慣れない旅を続けて痩せ細った彼女は、もう限界に近かった。
 どこかで休ませなければ。
 追手をまく為、人里には長く居座らずにここまで来たが、そんな強行軍はティレの体力を猛獣のように食い潰した。屋根のない街道や森で盗賊や魔物に怯えながら夜を過ごし、日中はひたすら歩き続けてここまでやってきたのだ。体力に人一倍の自信があったフィランの顔にすら、今や疲労は色濃くその影を落としていた。
 そう。ここまでやってきた道のりは、まさに凄絶の一言だった。はじめは駆け落ちをしたことによる家や友を裏切った責任で胸がただれるように痛んだ――はずだったが、追手がついてからはナーバスになっているどころではなかった。彼らから逃れる為には、ありとあらゆる手段を講じねばならなかった。ある町では馬を盗んで逃げようと思ったが、それは持ち主にあまりに悪いので置手紙といくらかの現金を馬小屋に残していこうとして、準備しているところを見つかり慌てふためいて逃げて帰らずの森にうっかり足を踏み入れ、大事な恋人もろとも心中しそうな羽目になったのも今となっては懐かしい。ちなみに帰らずの森から生還した頃には自分たちがこんなところで迷っているなどとは追手も思っていなかったらしく、すんなりと故郷を抜け出すことが出来た。神々の加護があったのだろう。
 だがこの旅で大変なのは女性を連れているという事実にあった。危険な道のり、連れの恋人を一人には出来ない。けれど、着替えや風呂の時まで一緒にいるのかよええおいと鼻血を噴きそうになるのを騎士としての意地でこらえ、仕方ないからそういう時は背を向けた状態で傍にいることにした。下心はない、多分。こっそり覗くこともなかった。彼はその点立派な騎士だった。
 また、他にも苦難は星の数ほど降り注ぎ、地を這いずる虫のように道々に散りばめられていた。そんな数多の危険に晒される道中、彼は過去の鮮やかな風景を幾度となく反芻し、戻れない故郷へ寂寥の念を込めて空を見上げ――ることもなく、魔物に襲われ、盗賊に襲われた。ちょうど帝国は不安定な時期に突入しており、富裕層は汚職と飽食に溺れ民衆は災害と飢餓に苦しみ、多分もうすぐ潰れるんじゃないかなといった終末的様相。そんな中、男一人、女一人の道中。更に後ろ暗い理由がある為人気のない道を選んでいたのではまさに鍋と野菜を背負って人里にやってきた鹿だ。どうでもいいが鹿肉はペレーズという香草と共に煮込むと臭みが消えてうまい。
 走馬灯のように脳裏を過ぎ去る濃厚な記憶の中、あの煮込み料理また食べたいなあと一瞬思考を遠い場所に飛ばしてしまいそうになったが、フィランは慌てて振り払った。今大事なのは煮込みでなく恋人だ。
「ごめんなさい」
「謝らないでと前にも言ったよ、ティレ。大丈夫。少し休もう」
 蚊が鳴くような謝罪の言葉は、フィランの胸を締め付ける。それでもフィランはそっと笑って見せてから、顔をあげて周囲の気配を伺った。
 来たこともない古ぼけた街道の片隅から見る世界は、雨によって視界が悪く底が見えない。目立つ道を嫌って主要な街道は避けたため、この位置が本当に自分の認識と合っているのか、正直フィランには分からなかった。せめて近くに正確な居場所が分かる標があれば良いのだが。ともあれ、彼女の様子を見る限り、少し休まないことには動きようがない。
 そう思い、ティレの隣に腰を下ろそうとしたその時だった。
「あれ?」
 はっとして身を隠そうとするが、既に遅かったようである。ロバを曳いて街道を歩いてきた人影が、こちらに気付いてぬかるむ道を駆け寄ってきたのだ。
「あれ、あれ、あれ?」
 目深に被せられた上衣の中から聞こえてくるのは、鈍くけぶる空気に似合わぬ明るい声。女だ――それもまだ若い、少女のような。
 しかし緊張を解くことは出来なかった。女や子供は一般人にとって有効な目くらましとなる。本性は盗賊の仲間であったなどという事例はざらだ。
 槍の柄に手をかけながら、ティレを庇うようにフィランは立った。ティレもまた、旅の中で教えたとおりに立ち上がってフィランの後ろに隠れる。
 そんな彼女の気配に、フィランは内心で表情を歪ませる。疲労が粘つく油のように溜まっているだろうに。うまくやりすごさなければいけない、そうフィランは顎を引いて見知らぬ少女を眼前に据えた。
「こんにちは。旅のお方ですか?」
 素朴な挨拶と表情を向けてきたのは、古びた煉瓦色をした髪を二つに分けて束ね、粗末な服を着た少女だった。歳の頃は十六歳のティレと同じくらいだろうか。好奇心に溢れた大きな瞳がぱちぱちと瞬いている。
「こんなところでどうしましたか?」
 見る限り悪意のない笑顔。その真意を探ろうと、フィランは小さく口を開いた。
「ええ、少し休んでいただけです。あなたは?」
「マリルはお遣いの帰りなんですよ」
「この辺りに村が?」
「はい? ――ああ、迷子さんだったんですか?」
 逆に聞き返されてしまう。怪訝そうな顔をするフィランへ、太陽のような笑みを浮かべて娘は道の先を指差した。
「ヴェルスがすぐそこですよ」
「ヴェルス」
 口ずさんで、フィランは僅かに目を見開いた。知っている都市の名だ。帝国の外れ、辺境の属州に位置する地方都市ヴェルス。そこは遥かなる時代、高名な詩人によってその栄華を謳われている。かの都市につけられた偉大な二つ名は。
「……黄金の庭」
 少女はくすくすと笑い、手を後ろで組んだ。
「その名前を想像して行くと、びっくりしますよ。今はただの農業都市です」
 それを聞いてフィランも苦笑した。かつては堅牢な城壁と鍛え抜かれた軍を持つ強大な都市国家として名を馳せたヴェルスも、帝国に敗北を期し属州に組み込まれてから百年が経つ。この間にヴェルスの栄光はすっかり成りを潜め、更に帝国中では辺境にあったので、結果農業だけが盛んなド田舎と化した。その割に「黄金の庭」なんて立派な二つ名だけが一人歩きしたため、変に関心を集めることとなってしまったのだ。各地から夢を見た者がこの都市を訪れ、「ただの地方都市じゃねえか」と絶望に打ちひしがれたという話は一つや二つではない。そんな珍事を経て、ヴェルスは本国で発行された帝国旅行ガイドの『行ってがっかりした観光都市番付』で堂々一位の名誉を戴く羽目になったくらいだ。かの名を謳った詩人はきっと天国で肩身の狭い思いをしていることだろう。
 一方、胸中がひやりと冷たくなり、フィランは内心で舌打ちをした。ヴェルスまで来ていたのは予想外だった。思っていたよりも進路が大分北に逸れていたようだ。ヴェルスは辺境とはいえ、目指す海からはまだ遠い。追っ手は何処まで来ているだろうか。
「あの、大丈夫ですか?」
「え? ああ、なんでもないよ」
「えっと、あなたではなくて……」
 少女の視線が自分にないことに気付き、はっとしてフィランは振り向いた。淡い藤色の髪が力なく靡き、流れるままに恋人の体が倒れたのはそのときだった。
「ティレ!」
 被せていた外套がずれて落ち、色素の薄い肌が雨の元に露となる。眉根を寄せて苦しげな呼気を繰り返すティレをフィランが抱き起こすと、傍らの少女も危険を察知したらしい。表情を引き締めてティレの傍らに膝をついた。
「いけません、お顔が真っ青ですよ! 急いで運びましょう」
 そう急かされたが、身が引き裂かれるような心地でフィランは首を振る。医者に診せなければいけないのは分かっている。しかし、いけないのだ。診療所で多くの人の目に晒されるのは。それだけは避けなければならない。
「駄目だ、都市に入るのは……」
「訳ありさんなんですね」
 思いがけずきっぱりとした物言いに、フィランはどきりとして少女を見つめた。地味な上衣に身を包んだ少女は、小さく笑うと頷いた。
「ならミモさんのところに運びましょう、そこは安全です」
「……」
 ティレの矮躯を抱えながら、フィランは唇を噛み締めた。妙に自身ありげだが、果たしてこの少女のことを信じて良いものだろうか。都市の外に医者が待機する場所などそうそうない。ならば少女が言う場所はやはり、人多き城壁内にあるのではないだろうか。しかし大切な恋人をこのままにしておくわけにもいかないのだ。
「大丈夫です。マリルの島、割とそういう人専門ですから」
 焦燥に思考を焼かれながら、フィランは会話に混じった妙な単語に反応して顔をあげた。
「……島?」
「はい、島です。とにかく急いで! 雨に濡らしてはいけません」
「わ、分かったよ」
 少女の剣幕に押されて、フィランは恋人を抱き上げた。少女が手早くフィランの荷物をロバに載せ、先導して走り出す。しとしとと降り注ぐ雨の中、二人は寂れた街道を駆けていった。

 ミラース暦598年。キヨツィナ大陸北部の山間での出来事だった。


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 1話:僕たちは駆け落ちをした




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