-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 九.戦慄の走る時

114.戦場に吹き込む風



「だ、大丈夫なのこれ!!」
「まあ壊れたら壊れたでそのときだなー」
 さらっと恐ろしいことを口走ったフェイズに、クリュウは全身を粟立たせた。
 スイは窓の外の景色からこの装甲車が南西に向かっていることを判断する。
 その先は……まさしく激戦地だ。
「このまま突っ切って敵陣まで行けるか」
「りょーかい。ま、ヘイズルのオッサンにひと暴れしてこいって言われてるから、ちょっと寄り道はするがなー」
 確かにこんなものを敵に見せ付ければ、その禍々しい姿にかなりの不安を仰げるだろう。
 しかし、戦闘能力はどれほどのものだろうか。
「す、すごい揺れ…」
 スイの肩口にしがみつくようにしたクリュウが呟く。
 一体どんなエンジンで動いているのだろうか。
「わはは、すげーじゃじゃ馬だ。まるでピュラみてーだな」
「わーっ! ぶ、ぶつかるよっ!」
 クリュウが叫んだ直後には広場の入り口にある石造りのアーチの柱を木っ端微塵にしている。
 しかしどれだけ硬い金属で出来ているのだろうか、こちら側は亀裂の一つも走らない。
 そのままなだれ込む形となった広場には、敵の隊が見えた。
 こちらの姿を捉えて、全員呆然としている。……当たり前だろう。
「おーらおらおら、どかねーと下敷きになるぞー」
 フェイズが横のレバーを引いてハンドルを切ると、一気にすさまじい勢いで装甲車は彼らに向かって突っ込んでいった。
「わっ、わーーー!!」
 巨体ががくんっ、と傾いて向きを変えるのに、クリュウは危うく手を離しそうになる。
 がれきを飛び散らせ、砂煙をあげながら装甲車が広場を突っ切るのには5秒もかからなかったろう。
「うわぁぁぁっ!!」
 敵の兵が弾けるようにして散っていく。しかし装甲車は構わず直進を続ける。
 そして、その先にあるのは元々役場だった巨大な建物―――!
 3階建てもある、こんな建物にぶつかっては流石にこちらが粉砕されてしまうだろう。
「わっ、無理! 無理! ストップストップーっ!!」
「やー、この距離でこの速さだと止まんねーってばさ普通」
「そんなぁーっ!」
 しかしフェイズは顔色ひとつ変えなかった。
 指が踊るような動きでパネルの上を動く。
 あたかもピアノを奏でるようにそれを操作すると、最後に一際大きな赤いボタンを人差し指で叩いた。
 ――次の瞬間、装甲車の側面につけられた大砲から連続で弾が放たれる音。
「ま、まさか」
 クリュウが危惧した直後には、大陸ごと震撼させるような爆発音がとどろいていた。
 一気に視界が砂煙で覆われる。
 目の前の役場は、吹き飛ばされたケーキのように跡形もなく消し飛んでいた。
 あまりに大きな爆音にクリュウは思わず手を離して耳を塞ぐ。
「うわーっ、無茶苦茶だよっ!」
「そういうことはこれ造った古代人に言ってくれってさ」
 装甲車は速さを緩めることも知らずに、がれきと化した先へと突き進んだ。
 炎上する中を通るというのに、防火構造になった操縦室の中は全く熱くならない。
 フェイズは笑顔のままハンドルを切った。
 キュルキュルと火花を散らせながら装甲車は向きを変え、再び大通りの方になだれ込む。
 しかもスピードは更に増すばかりだ。
 そのあまりの急カーブにうっかり手を離したままだったクリュウが狭い部屋の中を吹っ飛んで、腰をしたたかに打つ。
「いやー、大昔の人もすげーもん作ったもんだ」
 フェイズは今度はハンドルを反対側にきる。がくん、と巨体が傾いで、軽くかすめた壁を粉砕しながらカーブをする。
 彼の言うことに対して、確かにとスイも感じていた。古代に生きた者たちはこんなもの同士で戦っていたのだ。
 …だからこそ、もしかしたらその身を滅ぼしたのかもしれなかった。
 何度もカーブし、街の建造物を破壊しながら装甲車は驀進し―――。
 数分後、ついに交戦地へと躍り出たのだった。
「おっ、いるいる」
 突然現れた見たこともない禍々しい金属体に言葉を失う彼らを見下ろして、フェイズは笑った。
 その姿を見つけた味方たちは作戦通りに散るようにして一度退く。
「急げ、潰されるぞっ」
「俺たちの力、貴族たちに見せてやれっ」
 各々そう言いながら後退する。体制を立て直す時間もこの装甲車で稼げるだろう。
「暴走だけはしないでくれよ、っと」
 フェイズが同時にレバーを勢いよく押し出すと、排気口から灰色の煙を噴出しながら装甲車が前進をはじめる。
 その唸り声が空気を震わせ、中央の大通りに響き渡った。
「な……なんだこれはっ!」
 すぐさま敵も新たな敵の出現に驚きを隠せぬまま、攻撃してくる。
 しかし雨のように降り注ぐ矢も、装甲車の前には全く威力を示さない。
「魔法を使え!」
 声と共に魔法部隊が次々と詠唱に入り、魔法を完成させていく。
 風が刃となって襲い掛かり、巨体は一気に傾いた。
「うぉっと」
 フェイズが反対側に体重をかけて片方浮いた車輪を無理矢理元に戻すと、素早くパネルに指を滑らせる。
 すると巨体の至るところに設置された砲台から弾丸が雨あられと噴出していった。
「す、すごい……」
 クリュウはその威力に戦慄を覚える。
 この装甲車の中に乗っているのはたった三人…、否、扱っているのはたった一人だというのに、こんな威力を発揮するのだ。
 目の前で次々と散っていく命たちに、クリュウは思わず目を背けた。
 戦いは、圧勝であった。
 貴族側の兵を次々と打ち破りながら、装甲車は直進を続ける。
 目指すは、貴族側の陣地に向けて―――。


 ***


「だ、駄目です! くいとめられません!」
 兵士の一人がテントの中に血相を変えながら駆け込んできた。
「――戦況は?」
 それに慌てることなく答えたのはハルムの従者だ。
 兵士はよほど恐怖しているのか、がたがた震えながら言った。
「奴ら、化け物を使っています!」
「……化け物だと?」
 続いて返したのはその奥にいたハルムだ。
 彼の姿を見とめると、兵士は作法に従って頭を下げて、続けた。
「はい、我々よりもはるかに巨大で――鋼の鎧をまとい、見たこともない魔法を使うような…!」
 兵士は半分我を忘れたように身振り手振りでその様子を伝える。その言葉に、ハルムが驚いたように目を瞬いた。
「――装甲車か!」
 恐ろしさを知りうる限りの語を使って表現する兵士に、喉の奥から押し出すようにしてハルムは呟く。
「すでに西地区がかなりの勢いで押されています! 奴ら、ここに化け物を突っ込ませてくる気かと――」
 ハルムは紅の瞳をぎらりと輝かせて、…拳を握り締めた。これは流石に予想外の出来事だ。
 まさか平民にあの機械を扱える者がいるとは思わなかったのだ。何しろ彼らの中には文字の読み書きが出来るものでさえ少ない。なのに一緒に盗み出した説明書の、暗号で書かれた操作方法を全て解読したというのか―――。
「――そこまで博識な者がいるというのか」
 そうハルムがうめいたその直後だった。
「ええ、いるでしょう」
 ふっ…と、テントの中に風が吹き込むようにして、別の声。
 刹那、中にいる全ての者が顔をあげて出入り口の方に視線をやる。
 すると、いつの間にか開かれたそこに……人影があった。
「何者だッ!」
 従者がハルムを庇うようにして立ち、剣の柄に手をかける。
 すると人のシルエットは困ったように少し肩をすくめてみせた。
「――失礼。聖なるウッドカーツの血の前に過ぎた言葉でした」
 まるで紳士のような口調でそう言うと、人影は一礼してみせる。――甘い響きだが、どこかこの場には相応しくなく寒気を覚える声だった。
 ハルムは目を細めて様子を伺うが、テントの外に立っているので逆行でよく顔が見えない。シルエットからするとすらりとした細身で長身の男のようだ。
「……さて、中に入ることの許可を頂きたいのですが」
「名を名乗れ」
 得体の知れない相手に、従者が厳しい言葉を突きつける。
 しかしハルムは今にも斬りかかっていきそうな彼を手で制した。
「……外には見張りがいるはずなのだが。それをどうやってかい潜ったのかな?」
「かい潜ったなど」
 人影は苦笑したようだった。肩が小さく揺れる。
 突然の緊張にテントの中の空気が強張っているのが肌でわかった。
 そうして、無駄のない動きで一歩、足を踏み出す。
「そこまでだ! 止まって用件を伝えよ」
 従者が剣を引き抜いて威嚇するが、影は止まることも知らない。
 すると影は、すぅっと手を胸の辺りまでもたげた。更にテントの中の緊張が高まる。次々と辺りの兵士たちが剣に手をかけて……。
 そうして、ハルムは影の全貌を捉えた。
 30代ほどの黒いぱりっとした礼服を着こなす……、一見、どこにでもいるような紳士の風貌。
 こげ茶の髪も同じく綺麗に揃えられている。
 端整だが、…たったそれだけの人形めいた顔立ち。もし機械で人を作れば、それはきっとこんな顔をしているだろう。
 そんな生気のない姿は現実感すら乏しく、……辺りの者もその姿に戦慄を隠しきれないようだった。
「――お気をつけ下さい、あやつ……只者ではございません」
 従者が小声でそう伝えてくる。しかしそれを言う前からハルムも、圧倒されるほどの威圧感を感じていた。
 突然の乱入者、まったく正体の知れない姿。一体何者だというのか。
 ――すると男は、口の形を三日月形に変えてみせた。
 これもまた、一見すれば優しげな笑い方なのだが、……どこか寒気を覚える。
「突然押しかけて、申し訳御座いません。僕は――」
 じゃらっと音がして、彼の手の中から何かが零れ落ちた。
 しかしそれは鎖で繋がれているために、空中でぴんと制止する。
 それは金で出来た紋章だ。そこに刻まれているのは――。
「聖都リザンドから参りました、特務省治安維持部のファイバー・ミグ・ファレルーンと申します。お見知りおきを」
「リザンド、だと……!?」
 ウッドカーツ家の本家がある場所を口にされて、ハルムの顔に険しいものが走る。
 しかしファイバーと名乗る男の手からぶらさがるものは確かに…リザンドの特務省の紋章だ。
 これを見せれば憲法上、どのような身分の者でも彼らに従わなければならないということになっている。
「……わかった、ファイバー君。部下の非礼を許して欲しい、君を歓迎しよう」
 そんなものを寄こしてきたウッドカーツ本家を心底憎みながら、ハルムは表面上だけの笑顔を浮かべた。
「しかし、聞いていないのだがな。尊公のような者がここに来ることも、そして何をするのかも」
「先日、ダブリス家から平民たちに古代遺跡が盗まれたでしょう」
 落ち着き払った声がファイバーの口から奏でられる。
 彼は極めて紳士的に、穏やかに言っていた。
「あの力が平民に渡っては、治安に甚大な被害を及ぼす可能性があります。こうなった以上、即刻排除すべきというのが議会の決断です。僕は微力ながら、それを成そうとするハルム様のお力となるように遣わされました」
「――つまりは監視ということか」
 ファイバーに聞こえないようにハルムは口の中で呟く。しかし聖都リザンドの議会が決めたことだ、こうなったら彼一人でどうになることでもない。
「…ところでファイバー君。君は先ほど、敵に博識な者がいると言ったな。どういうことか説明してくれるかね」
 問いかけると、彼は失礼…、と断ってハルムに更に近付いた。
 従者が緊張に体を強張らせるが、目線で制しておく。
 ファイバーは含ませるようにして、とび色の瞳を静かに揺らめかせた。
「報告書を読ませて頂きました。そうしたら少し気になることがございまして――、現在の反乱の首謀者が使うこの戦法、手際の良さ、大胆な行動、……僕の知人と非常に似ているのです」
「――知人?」
 ファイバーは唇の端を吊り上げて、講義でもするかのように続けた。
「ウッドカーツ家の御方に問われれば答えないわけには参りますまい。…今から25年ほど前に発案された計画をご存知ですか? コードネームは『エル・プロジェクト』」
 ハルムは答えなかった。しかしその顔に明らかな驚きが垣間見える。そんな姿を見て、ファイバーは少し満足そうに笑った。
「お察しの通り、素質ありとされた子供を集め、特殊教育を受けさせ、…反逆者を見つけ潰していく『制裁する神』を造ろうとした計画です」
 じっと彼の言葉を聴いているハルムに向けて、そのままファイバーは続ける。
「しかし、プロジェクトの最終段階まで訓練に耐え『生き残っていた』7人の子供の内……一人が、ある日突然消息を絶っています」
「―――君は」
 彼の言葉に何かを予感したハルムが、紅い瞳でファイバーを睨んだ。
 ファイバーはにこりと笑って、返した。
「その消息を断った者…そして今、この反乱の首謀者と見られる男の名は――ヘイズル・ミグ・レザーブライト」


 ***


 ――ヘイズルは不意に振り向いた。
 栗色の瞳が一層深みを増して、敵陣の方を睨む。
「……へっ、簡単すぎやしねえか?」
「はっ?」
 横にいた一人が突然の声に疑問符で返した。
 ヘイズルは屋根の上から街を見下ろし、装甲車の位置を確認する。
 荒ぶる獣のような古代遺産が、町を破壊するかのように突き進んでいく姿が見えた。
 先ほどから入ってくる情報は良いものばかりだ。それは不気味にすら感じられるほどに――。
「嫌な気配がしてるぜ。……切り札を隠してやがるな」
 最後は独り言のように呟いて、口元に手をやる。
 暫くの逡巡の後、ヘイズルは顔をあげて言っていた。
「西地区の兵を必要最低限にして装甲車以外は戻らせろ。南地区も敵を牽制しつつ、全て戻せ」
「――はっ?」
 突然の命令に、横の男が目を見開く。
「だ、だけどよヘイズル。ここまで押してるんだ、こうなったら最後まで――」
「ウッドカーツ家はそんな甘いものじゃない」
 遮るかのように言い切って、ヘイズルは再び敵陣を睨んだ。
「……兵は弱い連中ばかりだ。ってことは、それをカバーするほどの『もの』を持っているんだろうな、じゃねえと天下の聖都リザンドが軍の出陣を認めるわけがねえ」
「――――!」
 ごくり、と男が唾を呑む。
 海からの風に、深緑の髪が揺れていた。
「連中――何考えてやがる」


 ***


「ヘイズル・ミグ・レザーブライト。戦闘能力はA++、若干15歳にして知能テストの結果はA+++。プロジェクトの中でもトップの成績を保ち17歳で将軍位についています。同年のキヨツィナ大陸北西で勃発したルビザノ反乱は彼の指揮で鎮圧されました」
 すらすらと、……今までは性別すら分からなかった首謀者の履歴を口にされて、ハルムたちはそれぞれ押し黙る。
「しかしその後突如消息を断ち、依然行方不明のままでした。それがこんな形で出てくるとは――」
 ファイバーはさも無念そうな表情で、続けた。
「――つまりこれは我々の過失でもあるのです。彼の掌握が出来ず、このような暴走をさせてしまった――、議会はこれをヘイズルの重大な反逆行為と見なし……」
 そうして、その無機質な瞳がついと細められる――。
「彼を早急に抹殺することで、全会一致致しました」
 すらりとした長身の男は、そう淡々と結論を下した。
 ハルムはそんな彼を睨みながら、口の中で呟く。
「……そんな奴がクイールと手を組んだか」
「ハルム・ウッドカーツ様。卑しい身ながら、議会の命令をお伝え致します」
 そう呼びかけられた紅い瞳の男は、考えていた。
 何故、ヘイズルという――それほどの能力を兼ね備えた者が貴族に反旗をひるがえしたのか。
 将軍位などを貰っているならば、その後の出世も思いのままだろうに――。
「僕の言葉は全て議会の言葉と見なして頂いて結構。全ては精霊の御心のままに」
 ふわっと優しげに笑って、ファイバーは胸に右手をあてて紡いだ。

「今すぐ兵を退かせ、あの娘の力を解き放って下さい」

 その瞬間、その場にいた全員が顔をあげた。
 ある者は呆然とし、ある者は鋭い目をその特務省の役人に向ける。
 そうして……ハルムは、静かに彼を見つめていた。無機質な、その人形めいた瞳を。
「―――断る」
 言葉は、300年という時を止めたにふさわしいウッドカーツの重みを持っていた。
 対してファイバーは、さも心外だというように首をひねってみせる。
「これはこれは」
「あの力はあまりに危険だという書簡は何度も聖都に送ったはずだが?」
「しかしそれでは、あの娘をわざわざ危険にさらしてこちらに連れてきた意味がないでしょう。あのような力を持つ娘を移動させるのにどれだけの労力が必要か、ご存知でしょうか?」
「私はあの娘を呼んだ覚えは一度もないのだがね」
 少なからず棘を含んだ物言いに、ファイバーは困った風に口元を緩めた。ハルムは氷のような冷たい瞳で佇んでいる。
「――ハルム様。良い機会ではないですか。あなた様もこんな辺境でくすぶっているよりも、手柄をたてて中央に進出したいのではありませんか?」
「悪いが、出世には興味がないからな――」
 しかし、ハルムの言葉が続くことはなかった。
 じゃらっという音と共に再びファイバーがポケットの中から例の紋章を取り出したのだ。
 まるで牧師のような笑みすら湛えて、ファイバーは言い放った。
「ご理解頂けぬのなら、この作戦の指揮は僕がとりましょう。僕の立場からはあなた様と同等の指令が下せます。……それと、あなた様のその行動も議会に報告されるでしょう」
「貴様……っ」
 従者が高圧的な役人の態度にしびれをきらせたのか、ぎらりと目を剥く。
 ハルムとしても、今ここで思い切りこの役人に切りかかりたい衝動をこらえながら、ついと目を細めた。
「……脅迫かね」
「協力を申し出ているのです。恐れながら、このような身とてあなた様のお力にはなれるかと」
 ―――。
 ……沈黙が、落ちた。
 しかし相変わらずファイバーの無機質な表情は機械のような行動を下すのみだ。
「時間がありません。ヘイズルは非常に勘が良い男です、……もう異変に気付いているでしょう。ハルム様、あなたから指示を」
「……―――」
 不安げな従者や兵士たちの視線を浴びながら、ハルムはそれでも表情を崩すことはなかった。
 血の色を滲ませた紅と、とび色のやわらかな色彩が、交わる。
 ハルムは何かを耐えるかのように逡巡していた。
 そして。
 ―――そうして……。
 ハルムの唇が、言葉を紡いだ。


 ***


「―――わかりました」
 知らせをきいて、彼女はわずかに瞳の色を揺らめかせた。
 しかし、たったそれだけだ。拒絶など微塵も見せず、彼女は静かに立ち上がる。
 横から心配そうな視線を送る40歳ほどの女性には、小さい笑顔で返した。
「スゥリー、ありがとう」
 彼女がまとうのは、まるでウッドカーツ家の者の瞳と同じ、緋色のマント。
 それですっぽりと首から足首までを隠したまま、彼女はテントから静々と歩み出た。
 幾人もの従者がそれに続く。スゥリーと呼ばれた女性も顔をこわばらせながらついてきていた。
 彼女はテントの外に広がる草原に目を細めた。冬も近く、色が抜けた草がさらさらと風になびいている。
「こちらに」
 男たちに言われるままに、彼女は眼下に街が一望できる即席の高台の上に立たされる。
 樹でできたそこに足を踏み入れるが、彼女には重みもないのだろうか…ぎしりという音も聞こえなかった。
 それほどに彼女は静まり返っている。
 眼下の町では様々な箇所で爆発が起こり、戦闘が起きている。
 そんな姿を一望すると彼女は寂しそうに目を伏せた。
 腰まである長い髪がさらさらと揺れる。
「全員撤収まで残り10分! 準備の方をよろしくおねがいします」
「……はい」
 高台に一人立った彼女は俯くようにして頷くと、胸元の紐を引いた。
 するりと緋色のマントが肩から落ちて、―――中から淡い橙色の独特の衣装が現れる。
 魔道師の着るローブといったらそれが一番正しいか…、しかし至るところに染められた文様、幾重にも重ねられた布は世界の何処を探しても見受けられないものだ。
 脱いだ緋色のマントを彼女が足元に置こうとすると、スゥリーが駆け寄ってきて受け取ってくれた。
 彼女はたおやかに笑って礼を言う。
 そしてそのとき…、別のテントからでてきた男に目がいった。
 紅い瞳、ウッドカーツ家の者だ。
 ハルム・ウッドカーツ。この作戦の指揮者である。
 しかし、彼女は知っていた。この男が最後まで自分を戦にかりだすことに反対していたことを。
 悲しいほどに、彼女は知っていた―――。
 険しく心配そうな視線を向けるハルムにも、彼女はたおやかに微笑んでみせた。
 ただ、わたしは大丈夫、という想いを込めて―――。
 そうして彼女は数多の視線が集中する中、……瞳を。

 瞳を、閉じた。


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