-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 九.戦慄の走る時

108.来たる日に



「フェイズ」
 会議を終えてばらばらと散っていく人の流れの中、赤紫の髪が目立つ青年を呼び止める声があった。
 ……それはその青年にとっても聞きなれた声、ヘイズルのものだ。
 忙しそうに資料を抱えて出て行くリエナを横目に、彼は座ったまま視線を向けている。
 フェイズはポケットに手を突っ込んだ体勢を崩すことなく、振り向いた。
「何か用かい?」
 まるでいつもと変わらないフェイズの仕草に何を思っているのか……、ヘイズルは平坦な顔のままだ。
 彼は暫くの沈黙の後、ゆっくりと、あたかも神託を告げるかのように言った。

「…あの赤毛の嬢ちゃんにはまだなにも話していないみたいだな」

 ――独特の見透かすような、声、瞳。
 フェイズの顔からふっと笑みが消えて、……何も残らない表情でヘイズルを見据える。
 広間には既に人の姿は消え、先ほどの喧騒が嘘のように静寂に落ちる。
 そこには、無表情で睨みあう二人がいるのみだった。
「こっちも色々と忙しいのさ」
「あれほど他の何よりも優先してきたことなのに、か?」
 糾弾するわけでもなく、ただ真実を紡ぐ声だ。
 栗色の目が、地下にいる分更に深くなる。…しかし、それはフェイズも同じことだった。
 ―――両者の視線が、かちあう。
 お互いに一歩も引かぬ、…それぞれ強い意志を秘めた瞳だった。
 あまりにその空気は張り詰めていて、耳鳴りすら覚える。
 ランプの灯だけが、二人の横顔を静かに浮かび上がらせていて―――。
「……フェイズ、友人としてお前にひとつ、忠告しておこう」
 それは、見る者に悪寒すら与えるような表情だった。
 冬空の月よりも冷たく冴え渡った、…冴え渡りすぎた、あまりに冷酷な顔。
 時間が閉塞していく。否、それは単に心がそう思うだけだ。
 やはり時はどんなときでも無情に過ぎてゆくもので。
 言葉は、いつしか解き放たれてしまうもので……。

「中途半端な度胸は、――――全てを、失うぞ」

 ……―――。
 長い、沈黙。
 まるでこの世から音という概念がなくなってしまったかのように、重い空気が落ちる。
 あまりに重苦しいそこの一体では、呼吸すら億劫に感じる。
 そうして、二人の瞳は更に深く……。
 ―――先に目を逸らしたのは、フェイズの方だった。
 相変わらずポケットに手を突っ込んだまま、再び身をひるがえす。
 そうやってヘイズルに背を向けて…、彼は笑ったようだった。
 しかしそれはどんな笑みだったのかはよく分からない。自嘲だったのか、苦しみだったのか、…あるいは?
「律儀にどーも」
 軽薄な口調。いつもと変わらぬ声でそれだけ言うと、フェイズは歩き出した。
 もう後ろの気配に振り向くこともない。
 かつり、かつり、と地下の部屋に足音が妙に響く。
 ヘイズルもまた、それから口を開くことはなかった。
 ただその後姿を見送るだけで……。
 その姿に何を見出したのか、ヘイズルはひとり、最後についと目を細めた。


 ***


 だん、とテーブルを叩いて叫んだのは、クレーブだった。
「無理です!!」
 食い入るように見つめる先には、テスタの顔。
 部屋に集まった他の者たちも黙ってはいたが、考えていることはクレーブと同じだったろう。
 クレーブがいつになくその表情を険しいものにさせながら紡ぐ言葉は、船長を説得しようとするものだ。
「海からの攻撃はどれほどのものになると思います? せめて陸から少数でも援護をまわしてもらわないと、…この船一隻で海岸一帯を守り通すことなど不可能です!」
 しかしクレーブ望みの反応は……、ない。
 テスタは極めて穏やかだった。
「うーん、でもただでさえ人手不足で陸でも手一杯なんだから、援護は無理だろうね」
 海に浮かぶ彼らの船、リベーブル号の船長室。
 現在、その場の空気はまるで戦場のように張り詰めている。
 ただその中で、まだ若い船長だけが…岩のように静かに佇んでいた。
 そんな若き船長…テスタ・アルヴは首からさげた巾着を握り締めたまま、ゆっくりと辺りを見回す。
 確かに実際、無謀すぎる。船員たった20人ほどで海からの貴族の攻撃を防ぐことなど、子供でも無理だと思うだろう。
「親方…、あまりに無茶ですよ。もしこの船が沈んで敵に港への侵入を許したら」
「背後から叩かれて、ヘイズルたちも全滅だろうね」
 あまりにもさらりとした声だったが、それは全員の心に直接突き刺さる。
 クレーブは思わず唇を噛んだ。確かに陸では四方八方の山から襲ってくる軍を対処しなければならない。しかし、背後にした海の守りを自分たちだけに任せるとは―――。
 ただ、彼がそれ以上強く言わなかったのは、…この船長が全く慌てたそぶりを見せないからだ。
 仲間たちが黙っているのもきっとそのせいだろう。
 多分、テスタは……、任されたからには策を練っているのだ。たとえそれが、テスタ自身にとってどんな苦痛を強いるものでも…。
 髪に手をつっこんでクレーブは、問うた。
「…勝算は、あるんで?」
 きっとその場にいる全員がテスタに訪ねたがっていることだろう。
 するとテスタは淡い灰色の瞳をふっと伏せて、ちらりと外の波間に視線をやる。
 ―――そのまま、目を閉じた。
「ないこともないよ」
 そうしてふわっと笑って再び目を開き、周囲を見渡す。
「でも、とても危険な戦いかた。失敗すれば、…この船ごと絶対に誰も生き残れないと思うよ」
 …全員が、テスタの顔を見た。
 前の船長亡き後、その遺志を全員が継ぎ心を一つにしていられたのは、テスタがいたからだった。
 彼は船員たちを手下としてでもなく、年上の者たちとしてでもなく、…ひとりの人間として接してくれたからだ。
 そうして、船員たちのそんな信頼を言ってに受けても全く怖じる様子を見せない。
 …だから彼の言葉は……彼らにとって、何よりも重いものだった。
「でもね、それは多分……やろうとすればぼくひとりでも出来ることだから」
 ぴくりと船員たちの肩が強張る。クレーブは拳を握り締めた。テスタがやろうとしていることの大体の予想がついたから、だ……。
 テスタは、海を思わせる静けさのまま、言っていた。
「だから、…もしもこの戦いに参加したくなかったら、船を下りても構わないよ。むやみに皆一緒に危険にさらされる必要もないから…、それは、皆の自由」
 潮騒の音がする。
 彼らの耳にやきついた、海が繰り返す呼吸の音。
 それは、あまりに静かすぎて……。
 ――誰も、テスタの言葉に声を荒げる者はいなかった。
 テスタはじっとそれぞれの反応を待っている。
 静止画にでもなったかのように、その場の時の全てが止まっていた。
 一瞬、それは誰にも破れないものにすら思えたが―――。
 ―――不意に、その沈黙を破った音があった。
 布ずれの音だ。
 突然のことに何事かと各々顔をあげる。
 …その先には、クレーブが自らの頭に巻いた鮮やかなバンダナをもぐようにして取った姿があった。
 この船の船員である証、鮮烈なイメージを残す真っ赤な布が、全員の瞳に映る。
 彼はそのまま、バンダナをテスタに向けて突き出すように腕をあげた。
「親方、覚えてます? アクバール船長にこのバンダナを貰ったときのこと」
 アクバール船長…それは既にこの世を去った、前の船長の名だ。
 テスタは静かに頷いて、微笑んだ。
「なにもかも見えなくなっちゃったぼくに、笑いかけてくれたね」
 そう、ただ一人首に巻いたバンダナに指をかける。
 あの日、小さくて巻けなかった布を代わりに首に結んでくれた温かさが、その指先に滲んでくるようにも思えた。
 ずっと覚えている。自分を迎え入れてくれた、あの船長の笑み、そして船員たちの笑顔…。
「自分たちも同じですよ。親を亡くした奴、行き倒れた奴、…犯罪に手を染めた奴まであの船長はこの船に連れてきて、この証をくれたんです」
 そこにいる誰もが自分がここにきたときのことを思い出していた。
 骨張ったごつい手で、少々荒っぽく結んでくれた赤いバンダナ。
「それは、皆同じですよ。だから親方、…そのときに船長が言った言葉も覚えてますよね?」
 誰かが弾かれたように顔をあげて、自分のバンダナをほどき始めた。
 そうしてそれを握り締める。この布と共に紡がれた言葉を、思い出して…。
 テスタは、ほんの少し淋しげに笑った。今は亡き船長のことを思い出しているのだろう。
 この船を作り、全てを始めた過去の人を想って。
 …言っていた。
「お前はこの船の一員、この船の一部」
 ひとり、またひとりと各々のバンダナが解かれはじめた。
 眩しいほどに鮮やかな赤が、そこに集結する。
「ぼくたちは海と共に生きる。海の望むままに、今―――成すべきことを」
 誰もがその言葉の力強さを感じていた。
 まだ年端もいかぬ細身の少年ではあったが、――彼らの中で最年少の船長であったが。
「リベーブル、その意味は古き言葉で……新たな世界を拓くもの」
 誰からも信頼されていた亡き船長の言葉を全て受け継いだ、気高い玉石を持つ少年の姿が、そこに―――。
 言葉は、彼の口から零れた。

「そう、お前はその一員」

 ひとりが、吹っ切れたように顔をあげた。
 その瞳に迷いはない。
「親方っ、俺は降りません! この船、最後まで守りきります!」
 それがきっかけとなり、彼らは口々にまくしたてはじめた。
「オレたちぁこの船と一心同体、離れるこたぁ死と一緒ですって」
「親方が勝てるっていって勝てなかった戦いはないっすから!」
「ついていきますっ! ついていかせてくだせえ!」
「そうだよ、こっちには親方がいるんだ! 貴族なんぞに負けてたまるかっ!」
 テスタはその大声に驚いたように一度目を丸くしたが、…直後には瞳の色を滲ませるようにして微笑む。
「数々の修羅場を乗り越えた自分たちの力、見せてやりましょう」
 クレーブがバンダナを握り締めたまま、言った。
 テスタはしばらくそれを見つめて、…ゆっくりと自分の首にまかれたバンダナに指をかけて、といた。
 するりと魔法でもかかったかのようになめらかに、それはテスタの右手に落ちる。
 テスタはそれを掲げて、目を細めてみせた。
「―――うん、そうだね」
 そこにいる誰もが、顔をつき合わせて頷く。
 まるで先ほどの恐怖と緊張はどこかへと消え去っていた。
「やるからにゃ、勝ちましょう!」
 笑顔。
 皆、笑っている。
 テスタにとって、この地で信じることのできる、数少ない大切な仲間たち…。
 自分は幸福なのだと、そう思った。
「ありがとう」
「親方、そのセリフはまだ早いですって」
 クレーブが歯をむき出しにして笑った。
「そりゃこの戦いに勝ってから言ってください」
 テスタは一瞬きょとんとした顔になるが、その口元がまた穏やかに笑むのに時間はかからない……。
「そうだね…」
 彼はバンダナを、…いつだったかこの船に入れてもらったときに結んでもらった大切なそれを、掲げたまま言っていた。
 口元には変わらぬ微笑みを…。
「世界に…、この世界に住む全てのひとに、ささいな平和と幸福が訪れる時代がくるように」
 誰もがテスタと同じようにバンダナをかかげてみせる。
 この青い海によく目立つ、彼らの意思の証を目一杯にその心に刻み付けて。
 リベーブル号船長テスタ・アルヴは、合図の言葉を紡いだ。
「ぼくたちは、戦うよ」
 もちろん、返る言葉は決まっていた。
 全員が、思わずテスタが目を丸くするほどの声でそれを言っていた。

「イェッサー!!」


 ***


 2日後、山の向こうにかがり火がたった。
「…やはり多いですね。向こうも本気ということですか」
 遠くでゆらゆらと揺らめく軍隊の影に、ハルリオが目を細める。
 どうやらこの町を取り囲むようにして陣を組んでいるらしい。
 山のあちらこちらに貴族の家柄を示す巨大な旗が見え隠れしている。
 隊列は迷わずこちらを目指していた。
 まるで砂糖にむらがるアリのように、それらが一点を目指して次々と現れる。
「おお、景気のいいことだな」
「ヘイズル、この後に及んでその軽口はやめてくれないかい」
 ハルリオの横ではヘイズルとリエナが同じようにして山の向こうの敵を見つめていた。
 まだ遠くにいることもあって、それは点が集合しているだけのように見えるが、明らかに影の数は…多い。
 敵の姿を見ようと全ての人員が外にでていた。各々、緊張が走っているようでその顔がこわばっているのが傍目からよくわかる。
 山の向こうから次々と現れる貴族の軍隊は、着実にこちらを取り囲むようにして進出してくるようだった。
「いよいよ……だね」
 潮風に遊ばれる髪を押さえながらリエナが呟く。
「風はこちらから向こうに向かって吹いている……、弓や魔法はこちらが有利のようだけど」
「まずは様子見だな、敵を知らぬうちはどうにもならんだろう」
 リエナが素早く味方たちを見回すと、…それぞれが冷や汗をかいているのがよくわかった。
 当たり前だ、こんなに目の前で貴族の力を今、見せ付けられているのだから…。
 リエナだって、今にも本能からくる恐怖に震えそうになるのをじっとこらえているのだ。
 普段は穏やかなレムゾンジーナの大気が、極限まで張り詰めている。
 …当たり前か、長年のそなえが今、戦いとしてあらゆる想いを秘め、ここに集結していこうとしているのだから…。
「……今、何か光ったな」
「え?」
 だしぬけにぼそりと呟いたヘイズルを、リエナが見上げた。
 ヘイズルは鷹のように鋭く目を光らせながら、山のすそ野をじっと見つめる。
 その顔に尋常ではないものを感じて、リエナもまた唇を噛み締めて意識を山の方へと集中させるが……。
 ――次の瞬間、突然ヒュルルル、と甲高い音が山中の至るとこで鳴り出した。
 音からして、射たと共に風を切り音をたてるかぶら矢のようだった。
「っ…?」
 まるで心に突き刺さるような音だ。思わずリエナは肩を飛び上がらせて辺りを見回す。味方たちもまた、突然鳴り出したかぶら矢の音に動揺を隠せないようだった。
 ヒュルルルル、ヒュルルルル、と風の叫び声にも似た嫌な音が大気一杯に響き渡る。
「なんだい、一体…」
「騒ぐな」
 横から冷淡な声を浴びせたのはヘイズルだった。まるで動じずに彼は瞳の色を揺らめかせる…。
 射たと同時に風を切って音を立てるかぶら矢が、次々とあがっていく。それは一本ならまだしも、数十本という数だ。
 右から、左から、正面から。それぞれにまるで呼応するかのように、音が鳴り響く。
 それは一体、何の合図だったのか……。
 耳にまとわりつくような音を聞きながら、―――この黄昏の時代に革命を画した者たちは、じっと山に次々と現れる影を見つめていた……。


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