-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 八.橙色の記憶

104.The end・less-永久に辿りつくことのない終焉-



 深い眠りに落ちているのだと、自分でよくわかった。
 どこまでも暗い穴の中をゆるやかに下降しているような…。
 だが、その場に不意に光が灯った気がして、目を覚ました。
 突然動けと指令が下った四肢がこわばるのに、自然と小さなうめき声が漏れる。
 しかしそれ以上になにか…日常にありえない変則的なことへの予感が、それを杞憂として認めない。
 次第に戻り始める聴覚と嗅覚が、その異常を感じ取った。

 ―――瞬間、頭の奥底から氷水でもかけられたかのように体中へと冷たいものが突きぬけ、跳ねるように起き上がっていた。

 火。炎。
 なにか…なにかが焼けはぜて、崩れ落ちていく音――。
 誰かの声。悲鳴。煙の、嫌な臭い――。
 思考する前に転がるように階段を駆け下りて、何ふり構わず外への扉を開いていた。
 ぶわりと肌を灼き、心を吹き抜ける夏の熱い風。…否、それよりも強く猛る炎の風が、逆にこちらの動きを凍らせていた。
 ――辺りは一面の炎の海。
 その奥に見える、なにかの影……。

 ミラース歴1426年、夏。
 どこよりも華やぎ、栄えたひとつの町が、たった一夜にして消えた日のこと…。

 何かの夢に間違って迷い込んでしまったと思いたかった。
 自分は、ひとり。兄は出かけていて…いない。
 このまま家に戻って眠ってしまえば、明日にはいつもと同じ朝がくるのではないかと疑ってしまえるほど、その場には嘘のように現実感が欠落していた。
 当たり前だ、今日の夕暮れまでは当たり前のようにここに平和な光景が広がっていたのだから…。
 しかし、命が、無数の命が橙の海に焼け落ちていく臭いが、自分をその場に繋ぎとめていてくれた。
 思わず吐き気を覚えて、口元に手をやる。
 後ずさろうにも、足が言うことをきかなかった。
 …どれほど、そうしていただろうか。ようやく強烈な頭痛と眩暈と共にきちんとした思考が戻ってくる。
 一体、何が起こったというのか? 誰が? 何のために?
 …しかし、返る答えは燃え盛る炎だけ。
 奇跡的に自分の家はまだ炎にまかれていなかった。
 もし中で眠ったまま炎に囲まれ煙にまかれれば…、無情な窒息死が待っていたことだろう。
 状況を確認しようと辺りを見回すと、…ふいに誰かが走っているのが視界に飛び込んだ。
 すぐそちらに向かおうと、僅かな期待を込めて動きかけるが、次の瞬間に目の前で起こったことが全ての時間を氷結させていた。
 炎の中でゆらめく、…影、ふたつ。
 ひとつは逃げ惑うかのように走っている。もうひとつがそれを追って……。
 長くとがった影が、突き刺さった。炎がはぜる音と共に、悲鳴が…ひとつ。
 意図が切れたように倒れる影。
 思考がついていけない。
 その全てを影絵としてみていたが、ふいに長くとがったものを携えた影がこちらに向かって走り出してくるのに、恐怖の感情が体を跳ねるように突き動かしていた。
 ころされる。
 本能が―――そう、おののく。
 身を翻して、走り出した。
 大通りを避けて、裏道へと飛び込む。
 幸い影はこちらに気付かなかったようで、そのまま走り去っていった。よろよろと後ずさりながら現状を把握しようとしたが、次の瞬間つんざいた激痛に体中の感覚が死ぬ。思わず膝をついてその場に崩れ落ちた。
 一体何が起こったのかわからない。しかし、腕に視線をやると…その理由がすぐにわかった。
 極限まで熱された壁に誤って接触したらしかった。顔をしかめたくなるような酷い火傷が右腕一帯に広がる。
 生きたまま右腕を焼かれる痛みが体中を焼いているようにすら思えた。
 散り散りに四散してしまいそうになる意識を必死で保ちながら、目の前を狭い視界で見つめる。
 それは、あの高台から見た夕日に染まる世界によく似ていた。
 どこまでも橙という黄昏に沈む世界。
 …ただ、違うのは今流れる時の速さがあの時のように、穏やかではなく――ひたすら痛みを与えるものだということ、だ…。
 遠くに下卑た笑い声と、町の者の声が聞こえてきた。
 何か…何かの襲撃を受けていると、やっと把握する。
 そしてこれほどの炎に包まれた町の行方も…、どこかで確信していた。
 ―――日常が、終わるのだ。
 今まで自分を守り、包み、育ててくれた町が…嘘のように消えていく。
 もしかしたら自分もこの町と共に滅びを迎える時が来たのかもしれなかった。
 腕がじくじくと激痛を訴えている。
 歯を食いしばって耐えようとするが、それで痛みが治まるわけでもなかった。
 煙が肺に入って、思わずむせる。そのリズムと同じに、体中につんざくような不快感を覚えた。
 どこかに逃げようとしても、辺りには剣を携えた襲撃者たち。
 逃げ惑い、殺されていく人々が目の前にいるのだ。自分などに、逃げられるはずも、ない…。

 ふと、違和感。
 なにか……なにかを、忘れている。
 とても、大切なこと……。
 …そういえば。
 その予感に、一気に胸が高鳴っていくのを感じた。
 鳴り響くシグナル。自分でもわかるくらいに心臓が、跳ねる…。

 ―――それは、…そう、どうして今まで気にしなかったのかと、自分を糾弾したくなるほど―――、最初に考えるべきことであった。

「――――……フレアは?」

 自身でそう呟いたときには、既に体が動いていた。
 視界のはずれで何かがうごめいていたが、それが人なのか、炎なのか、…もうよくわからなかった。
 堰をきったように爆発的なエネルギーが溢れて体を突き動かす。
 そのまま、炎に沈む町を走り出していた。
 足は、迷わず少女の眠る家へと…。
 早く。一秒でも早く。
 だれかが叫ぶ音がした。しかし、構う余裕はない。
 もし地獄があるとすれば、恐らくこんな光景が広がっているのだろう。
 至るところに倒れたひとのかたち、揺らめく炎、泣き叫ぶひとの声……。
 どうして、なぜこんなことに、とわめく音。
 そんな無力な人々を嗤いながらなぶり殺す、無数の影。
 子供の泣く声。悲鳴。凍り付いて動けないもの。怒りを露にするもの―――。
 ああ。
 ここは一体……どこなんだろう。
 途中で剣を持ってこなかった自分に気付き、戦う手立てなど何もないことを悟る。
 しかし、それでも足は速さを緩めることがなかった。
 そう、最初から戦う手立てなど持っていなかったのだ。
 いつだって自分は、与えられたものを受け入れ、流して…。
 そうしてからっぽのまま過ごしてきたのだから。
 彼女と会って、そしてどうする? 逃げることはできるのか? …否、その前に自分は、彼女の元まで辿り付けるのだろうか……。
 視界は一面の橙色。
 終わりのない、鮮烈な色。
 赤でもなければ――黄でもない。
 白と黒に彩られた、遠い遠い橙色。
 吐く息のひとつひとつが炎のように熱い。
 既に腕の感覚はなく、喉の奥が切れて口の中は血の味で一杯だった。
 一体、何のためにこうしているのだろう。
 今までなにもしていなかったのに…、今更。
 そうだ。いつだって自分は何もせずに、ただ佇んでいただけで。
 何も失わないと思っていた。
 ずっとこの時が続いていくと信じ込んでいた。
 その中に埋没して、ただときが穏やかに流れていくのを待っていただけなのだ。
 目の前にあるものの尊さなど気にもとめず、守ろうとすらせず、――今更、走ったところで。
 …壊れ行く夜の町の中で思った。
 その炎の揺らめきの中で感じた。
 あまりにも無力な自分の姿が、痛いほどに炎の中に見える。感じる。
 失いたくないのに。
 その日常を失いたくなくて、手を伸ばすのに。
 だけれど、それはいつだって遅すぎて。
 ただ、幻のように指先をかすめて…。

 糸は、切れて。
 花は、…燃えて。

 全ては、遠く、遠く…。
 だれかの命の亡骸。
 血潮さえも炎にてらてらと照らされている。
 女子供、老人にさえ容赦はない。
 知っている影がいくつか見えた気がした。
 ああ、壊れていく。
 日常がひとつ、またひとつとちぎれていく。
 橙に染まりきったまま―――。
 自分もこのまま沈んでしまえばいいと思った。
 しかし、あの少女だけは、…沈むべきではないと。
 一秒でも、早く。走る。ひた走る。
 息が苦しい。その辛さに体中が限界を訴える。
 しかし止まったら待ち受けるのは…絶対の終わり、死…、だ。
 彼女の、いつものあのきらきら輝く姿を見るまでは、倒れるわけにはいかない。
 瞬間、耳とすれすれのところを矢が通り過ぎていく。
 気付かぬ間にあちらこちら火傷や擦り傷を負っているらしく、肌はその全てが灼けているようだ。
 灼熱の世界は煙が多く、呼吸が苦しい。
 極限まで現実感が希薄になる。

 そうだ、今の自分は世界の中にいるのだろうか。

 次の角で足がもつれる寸前のところで素早くターンする。
 普段には考えられない動きで体勢を立て直し、また走る…。

 それとも、世界の上にいるのだろうか。

 あと少し、あと少し……。
 もどかしい。だれかの声。そんなものは…もう、関係、ない…。

 もしくは、世界に埋もれているのだろうか。

 その扉は既に開いていた。それを、一気に潜り抜ける。
 何も考えていなかった。とにかく、家の中に入る。それが、全てだった…。

 ―――あるいは、世界に抱かれているのであろうか?


「――フレア!!」


 すっかり潰れた喉が、その声を思ったよりも大声にはしなかった。
 しかしまるで足の裏から氷の魔物に囚われたように…全ての時が完全に停止するのに、そう時間はかから、ない…。

 それは、眩暈という言葉で済まされるものではなかった。
 生きたまま体を切り刻まれたような、痺れにも似た―――壮絶な衝撃。
 肌は炎をまとったように熱く、なのにその中は、ぞっとするほどに冷たくなって……。
「………フレ…ア…?」
 そこには、光景があった。
 家族が。
 少女の家族が。
 嘘のように……散らばっている。
 会ったこともなかったが、…彼女の父親、母親…。
 部屋はすっかり荒らされて、二人は折り重なるようにして倒れていた。
 その、奥に。

 網膜に焼きつく、血だまり。

 あまりに鮮烈すぎる、色。
 音が一気に消失して……、世界が無音になる。

 嘘だ。
 これは……違う。違うん、だ……!

 血で汚れた若草色。
 床にちらばって。
 白い肌もまた、血の色に染まりきって―――。

「フレア……っ!!」

 その場に崩れ落ちる寸前で、体は前に動いていた。
 手を伸ばす。まるで零れ落ちていったものを追いかけるかのように。
 その小さな体を、抱き起こす。むせかえるような血の匂いに、意識が一瞬遠くなった。
「フレア………フレアっ!」
 胸から痛々しく血液を流す姿に顔をしかめる。おびただしい出血量が自分にその事実を理解させようとするが―――心が、そうもいかなかった。
 心が削られる。悲鳴をあげる。
 しかし張り付いた喉は叫ぶことすら許さない。ただ、ただ―――。

 いつものように、そこにいるだけで。

 なにひとつとして、できることは、なくて…。

「――――ィ…?」
 心がまた、はじける―――。
「…フレア?」
 少女の瞳が、ほんのわずかだけ開いて…自分の姿を、見とめた。
 それは、奇跡だったのかもしれない。しかし、何もすることが出来ない自分の前に、それはただ辛いだけで…。
「……ス……ィっ…」
 うめくような声。しかし次の言葉の前に、唇から血の塊が―――溢れる。
「フレアっ! 喋るな…!」
「……ぁ……っ」
 瞳が、揺れた。じわりと透明なものが吹き上がって、そのまま零れ落ちていく。
 まるで、少女の命のように。
 喋るなと言っても、自分に出来ることはない。ただ、そうやって血が流されていくのを見ているしかない。
 やわらかな若草の髪が、乱れてちらばる。少女の顔は恐怖に歪んで……。
「……む……ぃ……」
 詰まったような声が、唇から漏れた。その瞳は、既に自分を捉えていない……。
 血で染まった手が、最後の力でこちらの服を握り締めた。
「……さむ…ぃ……さむい、よ……スイ、なにも……みえ、な……」
 震える体で、そう囁く。
 心にひとつ、またひとつと亀裂が走っていく。
 夕日に輝いた笑顔も。
 その振り向いたときに流れる若草の髪も。
 あの、無数の言葉たちまでも、が―――。
「たす……けて」
 もう半分、言葉にならないような声…。
「たすけて……」
 体の全ての動きが停止していた。
 まるでごっそりとえぐられたように、心の奥深くが…消えている。
 その先は、虚無。
 少女のうわごとのような言葉の数々を耳にしながら……。
 何一つとして持っていない自分の姿を見つめながら……。

 たった一瞬のことだった。
 なにかが不意に腕から零れ落ちていくのは。
 当たり前と思って抱いていたものが。
 夢のように消えて無くなって。
 そうして、自分が何も持っていないのだと、絶望と共に気付かされるのは―――。

 もう、少女は動かなかった。
 不意に、風の音。
 ああ、なにかが、こちらに。
 腕に、痛み。
 だけれどもう……その痛みすら、あまり感じられない。
 心は崩れて落ちて、もうその残骸をさらすだけだ。
 このまま…炎の中に消えてしまえばいい。
 この少女と共に、なにもかも…消えてしまえばいい。
「…まだ一人いたか」
 部屋に入ってきた男が、こちらを見下ろす。
 ふと視線をやると、腕に矢が突き刺さっていた。
 …もうどうでもよくて、瞳を伏せる。
「――悪く思うな」
 声がした。
 目を……あげる。
 紅い瞳。
 血のように染まった、…とてもとても紅い瞳。
 ―――世界の覇者、ウッドカーツ家の証。
 ああ。
 彼は自分を殺そうとしているようだ。
 その剣が振りあがって。
 もういい。
 なにも…見たくない。
 目を閉じてしまおう。
 このまま…、
 このまま―――。

 ざ……ざ、ざ、

 ノイズ。
 なにかの…音。
 胸をかきならす、音たち。
 世界は動いているのだ。
 自分がどんなことをしても、生きても、死んでも、苦しんでも。
 世界は相変わらず、そこにあって、動いているのだ。
 音が……はじける。
 この音は…、聞いたことがある。
 …そうだ、これは。

 ひとの、ことば。

「やめろっ!!!」

 瞳を…ひらく。
 飛び込むのは、相変わらず橙色。
 どこまでも深い。
 あまりにも深い。
 まだ…自分は生きているようだった。
 振り下ろされる直前で、剣が止まっている。
 紅い瞳をした男が、驚いたような表情でその先を見つめていた。
 その先。
 扉を隔てた、そこ…に。

 ―――孤高の、銀髪鬼。

 血を滴らせる剣を持って。
 その服を、肌を、紅に染めて。
 それ以上に、橙色に染まって……。
 兄だ。
 ずっとその背中を見てきた、兄だった。
 名前を紡ごうとするが、からからに乾いた喉がそれを許さない。
 兄は…今まで見たこともないような、感情がむき出しになったような顔で男を睨んでいた。
「…これはどういうことだ」
「………」
「どういうことかと訊いている」
 海のように深い色をした瞳が、更にぎらぎらと眼光を放った。
 決して大きな声ではないというのに…心の奥底まで深く響く声。
「剣を離せ。…そいつは俺の弟だ」
 視線がこちらにやられる。兄はフレアの抜け殻に僅かに瞳の色を歪ませた。
「…弟、だと?」
 男は意外そうに自分に視線を落とした。
「…そういえば、聞いたことがあるな。孤高の銀髪鬼クイールの、…剣を持たぬ弟」
「……これがお前たちの答えか」
 ぽたぽたと、剣の先から血が滴る。
 感情が橙に染まった空気の中に惜しげもなく放出される。
「…これがお前たち貴族の……答えか」
 ほとばしる悪寒を、…感じていた。
 それは……怒り、憎しみ、…そんな言葉で表すことのできない、兄の言葉だった。
「こうやって幾人ものひとを、お前たちは私欲の為に闇に葬るのか…!」
 銀髪が、炎に照らされて煌く。
 それはまるで一枚の絵のように、ひとつの情景として焼きついた。
 兄は、やはり強いのだ。
 ずっとずっと、その二本の足で、立って…。
「そうだ、といったらお前はどうするんだ?」
 男は、落ち着き払った声で言った。
 男の剣も、兄と同じくらい血で汚れていた。
 ―――ああ、それは自分も同じか。
「……お前たちにこの刃を向ける」
 ぎん、と兄は強い瞳で睨みつけて…。
「この町を消したことよりもなによりも…、弟に手を出す奴は―――赦さない」
 剣が構えられた。重さなど感じていないような素早さで、大振りの剣を扱う。
 揺るがない、冷徹ともいえる意志が…そこにあるように思えた。
 …ふっ、と男の口元が緩む。
 不意に首筋の辺りに冷たい感触があたった。
「それなら……これはどうだ?」
 剣が、自分の喉元に突きつけられている。思わず呼吸が止まった。兄の瞳が…見開かれる。
「やめろ」
「やめてほしいかね」
 挑発の声ではなかった。まるで落ち着き払った、…静かな声だった。なのに心が震えて、恐怖におののく。
 男はこちらに剣を突きつけたまま、続けた。
「…孤高の銀髪鬼、クイール。その素晴らしき剣技、…それよりも注目すべきは目的の為なら冷酷にもなれる、ということだ。その点でお前は本当に『良い兵士』だった」
 自分はやはり、何をすることもできなくて。
 そうやって、ただ辺りの景色を焼き付けることしか、できなくて…。
「私としてもお前を失うのは惜しい」
 男は笑ったようだった。ぴっ、と切っ先が喉をかすめて小さな痺れが走る。
 剣を構えた兄に向かって、紅い瞳の男は言っていた。
「弟の安全は保障しよう。安全な場所へ連れて行く。そしてお前はこれからも私たちの『兵士』として生きる……、そんな取引はどうかね?」
 どくん、と心臓が一度高鳴った。
 体中に流れる血液が、不快なものとして感じられる…。
 肌にまとわりつく夏の空気は熱いはずなのに、妙に冷たい―――。
 兄を見た。
 兄は、じっとこちらを見つめていた。
 唇がわずかに動いた気がした。
 …だが、何を言いたかったのか……よく、わからなかった。
 ただ、焼きついたのはいつもと変わらぬその姿。
 橙色に染まった、とても強い目線。
 猛々しい姿は、他のどんな人よりも勝っていて、…決して屈することなどなくて。
 …兄は、唇を噛み締めた。
「さあ、どうする?」
 男の剣が更にこちらに近付く。
 なのに、恐怖はなかった。
 もう、体が麻痺してしまったのかもしれなかった。
 むせ返るような血の匂い、炎の匂い、…そして情景、その全てに。

「お前たちは」

 兄の、声だった。
 やはり、いつもと変わらぬ静かで強い声だった。

「そうやって、全てがうまくいくと…思っているか?」

 まるでその言葉が、自分の心にも突き刺さるようで、…なにかが、震える。
 兄を見上げていた。
 誰よりも強い、兄を見上げていた。

「もしここで俺が条件を呑んだら、…こいつはどうなる? 俺のために散々利用されて、自由を奪われ、監視され、…不要になったら―――この町のように、殺されるのか?」

 力、だ。
 それは、言霊となって夏の大気に散る。
 あまりにも大きなものがそれを語っているように見えて、…呼吸すら忘れていた。
 炎が燃え盛っている。
 ばちばちと音をたてて橙色の火炎が燃え盛っている。
 火炎は強い光を放ち、激発する。

 ―――まさにそれは、橙色の地獄。

「そいつはな、……普通の道を歩かなければならないんだ」

 ああ。
 兄の、願いは。
 まるで、この炎のように燃え盛って……。

「いや…どんな人だって、こんな血みどろの道を歩く必要はない…!」

 ―――孤高の銀髪鬼、とか呼ばれてるけどね…、ただ人一倍、ひとのことがわかるんじゃないかなって思う。
 ―――だから、ひとの哀しみとか苦しみとか――知っているから。

 …そう言ったのは誰だったろうか。

「人として、出会い、別れ、苦しみ、…それでも喜びを知って、生きていく」

 空気が、張り裂ける。
 そう感じるほどに、その場にはあまりにもの想いが溢れていた。

「そいつは、……そうやって生きていける心を持っているんだ…!」

 ただ、それと同じほどに言葉には痛みが垣間見えて……。
 哀しみすら感じるような、声、だった。
 ―――兄はぽつりと、呟いた。

「スイがそうやって歩いていくためなら、…俺はどうなったって構わない」

「なら、どうするんだ?」
 返るのは、冷たい声。
 現実という、…あまりにも哀しい声。
 胸の中に想いが溢れる。それはもう、正や負で表せる感情では、ない…。
 兄を見つめていた。
 たったひとりの…家族。
 家族という概念は今まで考えたこともなかったが―――。
 ただ、ただ…。
 ―――この兄を持ったことを、心から誇りに想って―――。

「…お前たちが欲しいのは、一体何だ?」

 兄は言っていた。

「お前たちが欲しいのは…俺の、力か」

 一瞬、何を言っているのかわからなくて思考が止まる。
 体中から力が抜けたように、もう指先たりとも動けなかった。
 その張り詰めた熱さと、夏の夜を…痛いほどに感じながら…兄の声を、聞く。
 そこではじめて、男に焦りが生まれた。
 兄の表情は、…穏やかだった。
 まるであの日……、初めて出会った日、剣をくれた日、剣を習った最後の日、…そんな日々と同じ、静かな表情だった。
 だけれどそこにまるで不快などはなくて。
 ずっと見ていた、
 ずっと、ずっと、

「それなら………」

 すっと兄の手が舞うように翻った。剣もまた、翻る。
 それが何を意味するか…思考が追いつかない。
 綺麗だった。
 銀髪がさらりと舞って。
 それ以上ないほどにしなやかな動きで、そこに無駄など微塵もなくて。
 表情も、いつもの…いつもの、兄の顔で。

 反射的に手を、伸ばす。
 頭の中で、ペンキがぶちまけられた。

「こうしてやる」

 ――――。

 炎。
 揺らめく炎。
 影。
 炎と共に揺らめく。
 走り出していた。
 誰よりも、何よりも先に、走り出していた。
 兄の血が、噴きだす。
 急所を僅かたりとも外さぬ場所に突き立てられた、剣のところから。
 己で突き刺した、その場所から―――。

「クォーツっ!!」

 手を伸ばす。もっと遠くに。更に遠くに。
 かすめるだけだとわかっていても、…それでも伸ばす。
 体中が振り絞るように絶叫していた。
 その場に今まさに崩れ落ちる兄のところへと―――。
 だが、たどり着く前に、瞳が煌くものを捉えていた。
 血飛沫と共に飛んでくるそれを反射的に手で掴む。
 刹那、ぐんっと体に重みがかかった。そして、その手を通して伝わってくる数多の命と、思いと――。

 剣だった。

 兄の持っていた、剣だった。

 兄が血に汚れた顔でこちらを見ている。
 そうして兄は一瞬、笑った。だけれど、苦しそうに、もどかしそうに、―――辛そうに。
 それはまたひとつ、心を大きく揺さぶる。
 崩れ落ちる銀の髪。色をなくしていく瞳。
 しかし、その前に、兄は……。

 その命の力を持ってして、叫んでいた。
 それは、願いであった。
 そうして、祈りでもあった。
 張り裂けるような、この炎をも切り裂く……声。




「走れ、スイっっ!!!」




 もうあと一歩踏み出せば、兄のところに届くというのに。
 声は、それを許さなかった。
 炎が揺らめく。
 体が勝手に…動く。
 心をその場に置き去りにして。
 想いを、…どう表すことも出来ずに。
 ああ。
 遠ざかる。
 遠ざかっていく。
 走り出す。
 息がきれても、足が悲鳴をあげても。
 どれだけ心が、あの場に残りたいとわめいても。
 後ろから、大きな声。
 誰かの声。
 自分を追う、ものたち。

 自分の右手には…剣。

 想いが託された、剣。

 今までに幾人もの血を吸い、そして兄の血で汚れた剣。

 重かった。
 肩が落ちるかと思うほどに、重かった。
 だけれど、…しかし。
 それは、扱えないほどのものでも…なかった。
 まるで自分の一部のように、すんなりと手の中に納まった。
 振りかぶる。振り下ろす。
 手ごたえ。
 走る。
 視界は既に一色に染まっている。
 なにが起こっているのか、わからない。
 熱い。呼吸が苦しい。
 しかし、それでも走る。
 突き動かされるようにして、走る。
 血の匂い。血の味。
 蘇る、幼い記憶。
 苦しかった。
 剣を握り、走ることが…こんなにも苦しかったとは。
 あの頃は全くそんなことを感じなかったのに…。
 …きっとそれは、剣を持たない道を知ってしまったから。
 こんなにも哀しく、崩れ落ちてしまいたくなる。
 雑音。
 なにかの音。
 誰の音なのか、何の声なのか、…既に意味をなすものとしては届いてこなかった。
 ただ、届くのはひとつの声。
 兄の……ことば。
 ああ。
 長い。とても長い。
 どこまでこの道は続くのだろう。
 それとも永遠に終焉はないのか。たどり着くことができないのだろうか。

 夕日に包まれた穏やかな町。
 炎に包まれた消えゆく町。

 ―――どうして、世界はこんなにも美しいのだろうか。
 ―――どうして、世界はこんなにも……、眩しいのだろうか―――。


 ***


 意識は、闇のまた奥の闇。
 どこで途切れてしまったのだろう。
 どこで、……消えてしまったのだろう。
 とても…静かだ。
 何の音もしない。
 黒の、黒。
 …黒?
 なにもないから、黒なのか。
 それとも…最初から黒が広がっているのか。
 そこはおそらくどこかの空間なのだろう。
 …空間?
 この空間のようなもの自体が意識なのか。
 それとも自分の意識がこの空間に漂っているのか。
 そう、何の音もしない。
 …音?
 耳という器官がないから聞こえないのか。
 それともはじめから―――。
 体が動かない。
 どうなっているのだろう。
 まるで他人の体を操っているようだ。
 どうやって動かせばいいのか…忘れてしまったようだった。

 そこにひとつ、雫が落ちて波紋を呼んだ。
 美しいひかり。

 瞳を、開く。
 思わず、細めた……。
 夕日だった。
 橙色の夕日が、相変わらず世界を包み込んでいた。
 鮮やかに、視界が染まっていた……。
 指先を動かそうとする。しかし次の瞬間に走る猛烈な痛みに顔をしかめて、断念する。
 代わりに視線を動かして、…自分の姿を見下ろした。
 そこには、…すっかりぼろぼろになった、自分の姿が…鮮やかに照らされていた。
 辺りは……森の一角。丁度斜面になっていて、自分の体は小さなくぼみにすっぽり収まるようにして、横になっていた。
 地平線の遠くから、夕日がこちらを見下ろしている。
 まるで、夢のようだった。
 このひかりに包まれて、今にもいつもの笑顔で少女が飛び出してきそうなくらい―――。
 兄が、すぐ傍で穏やかに剣を携えたまま佇んでいるのかと思うくらい――。

 世界は、美しかった。

 右手に視線を落とす。
 既に指一本動かすことも出来ずに、…離すことすら出来ない剣が、握られたままになっていた。
 大振りの剣。血がこびりついて、紅に染まっている。
 だけれど、ところどころ銀の肌が煌いているのは…、やはり綺麗だと思った。
 草のにおい。土のにおい。
 鳥が鳴いている。
 その先には、きっと…ひとの営みがあって。
 自分がどうなろうと、……世界は巡っていくのだろう。

 段々痛みに慣れてきて、…やっと、腕が持ち上がった。
 剣を持っていない方の手を夕日にかざして、ぼんやりと眺める。
 火傷だらけの、傷だらけの、みるも無残な手だった。
 そのまま、握り締めてみる。
 夕日を閉じ込めるように、握り締めて、みる……。
 しかし、それは……ただ、痛いだけだった。

 また今日も、自分はただそこにいるだけで。
 なにひとつ、できることはなくて。

 どうすればいいかと考えて、


 ―――どうすればいいかと、考えて……。

 -Bitter Orange, in the Blaze-


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