-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 七.想いはちぎれて

082.幼子の行く先



 今更、なにをこんなに恐れているのだろうか。
 やさしい潮風が、やわらかで、痛い。
 耳に響く音色は、美しく、甘く、心を裂く。
 左胸にあてた手が感じる、自らの鼓動を喉の奥だけで唄って。

 恐れる理由は、ない。
 ただ、凍える。

 体中が冷たい。

 こつ。こつ。

 石畳をブーツが叩く。
 この音はどこまで響くのか。
 どこまで、どこまで、届くのか。

 赤紫の髪。鮮やかに弄ぶのは、穏やかな風。
 それと同じ色の瞳。なのに、ずっと深い。
 そこにあるのはいつもの笑顔ではない。しかし眼光すら見当たらない。
 なにも、なにも、ない表情。
 ぴくりとも動かない頬。
 ただひとりで立っていて。
 佇むしかなかった。

 風景よりも鮮明に見える映像。
 彼岸花のように華々しく咲いていた、娘の姿。
 必ず願いは果たすと心に誓ったから、不安はないはず。

 なのに?

 真実を語ってしまえば全てが終わって、全ての心の穴が埋まるはずだったのに。
 その強さが。瞳の強さが。
 同じフレーズを心が繰り返し口ずさむ。
 荒野をたった一人で駆け抜ける影。
 なんと美しい、豊かな緋色の髪。
 いつか掴んだ手首の細さ。垣間見える少女の面影。
 まるで別人かとも思わせる芯の強さと。
 それでも感じる同じ愛しさ。

 潔く誓いを破って捨ててしまうことすら出来ない。

 どうにかして、どうにかして。
 どうすればいいだろうかと。
 どうすれば、迷いなしに少女を見ることができるだろうかと。

 は、とフェイズは軽く笑った。
 自嘲の笑いだった。

 Bitter Orange, in the Blaze.
 七.想いはちぎれて


 ***


「ふあぁ、のどかだねえ」
 この大陸は山が多い。起伏の激しい山中は旅するのに適しているとはまるでいえないのだが、全く彼は疲れるそぶりをみせなかった。
 ふいっと欠伸まじりに腕を伸ばす。
「大丈夫? 疲れがとれてなければすぐに休憩するけど」
「う、ううん。大丈夫だよ」
 その数歩後ろを歩いていたセルピは突然自分に声が投げかけられたのに慌てて返事を返した。

 あの夜から三日。

 テスタ曰く、ここからレムゾンジーナまでは一週間もあれば着くという。途中一度町に寄って適当に旅道具を揃えて、二人はこうして山中を歩いているのである。
 セルピ自身、旅にはすっかり慣れていたから少々の無理はきく。疲れていないのは本当であった。
 彼の言う通り、続くのはどこまでものどかで静かな美しい森だ。まるであの夜の炎が夢のように思えた。
 その上、それに拍車をかけるのがこのテスタの態度である。歴史に残るかもしれない大事件を起こしてきたというのにのんびりしていて、全く焦りがない。
 しかも船で暮らしているとは思えないほどに地上を歩くことに疲れを見せる様子もなく、…本当に不思議な青年だと思う。
「…テスタ君こそ休まなくて平気? 昨日もほとんど見張り頼んじゃって」
「あはは、ぼくこれでも頑丈に出来てるから」
 テスタはふわっと灰色の瞳で微笑んで、また前を向いた。彼のトレードマークでもあった赤いバンダナは今はとっている。やはり目立つからなのだろう。
 小鳥の囀りがどこからか聞こえた。心地良く森中に反響する。
「ピュラたちも…クレーブさんも、大丈夫かな」
「うーん、皆タフだから平気だと思うよ。むしろ大変なのはこれからだし」
「ふぇ?」
 ふっと視線をあげた先にはテスタの背中。
 表情が読み取れぬまま、彼は続けた。
「この事件で貴族はぼくたちの存在を知っちゃったんだ。反乱を起こそうとする者が『いるかもしれない』が『いる』に変わったんだよ。…このまま黙っててくれるかなあ」
 黙っててくれればいいんだけどねえ、とテスタはのん気に呟く。
「…そうだね、きっと大慌てで動き出すよね」
 セルピはぽつりとそう言った。自分の言葉にじわりと胸に痛みが走る。
 僅かにその泉の煌きを宿した瞳を伏せた。
「どんな手を使ってくるかもわからないよ」
「うーん、大変だね」
 相変わらずテスタは前進を止めない。本当に大変だと思っているのだろうか。
「だからきっとヘイズルは休む間もなく次の攻撃に入ると思うよ。得にまずは貴族たちの中核を叩いて足並みを乱すんだろうね」
「貴族の、中核――」
 セルピは口の中でもう一度その言葉を繰り返した。もしかすると、それは―――。
 かすかに唇が震えた。
 今、彼はどんな顔をしているだろうか。
 やはりいつもと同じようにふんわりと笑っているのかもしれなかった。それは彼女にはわからない。
 どうしようもなく体が重い。胸の内を全て叫んでしまいたかった。このつんざくような苦しみは耐えれば耐えるほど肥大化していく。
 こちらに背を向けている彼は今、きっと笑っているのだろう。
 しかし自分は今、きっと笑っていない。
 強くならなくてはいけないのだ。歩くべきだった道を外れてこの道を自分から選んだのだから。沢山の人に迷惑をかけたのだから。
 今からこんなに弱くなってしまっていては……これから起こるであろう出来事に到底太刀打ちなどできないだろう。
 しかし、どうすれば強くあることができるだろうか。

 胸だけが詰まる。

「―――テスタ君」
「うん?」
 振り向いた彼の顔を見て、はっとした。
 本当ならここで彼に相談したい。彼なら…きっと何かを教えてくれるかもしれないと思ったのだ。
 …しかし、彼は『貴族と敵対するもの』。自分の正体が知れた瞬間に―――どうなるかも分からない。
「…ぁ、ご、ごめんっ。ぼーっとしちゃって。なんでもないや…」
 慌ててごまかすセルピに、テスタはやはり笑んだ。
「うん、―――仮にも初めての仕事だったんだし、不安になるのは当たり前だよ。気が動転しちゃうんだよね」
 ふんわりとしたその表情は、どこか子供じみてもいて、…それでいて、まるで奥底が見えない。
 彼はふと遠くを見つめながら、前髪を耳にかける仕草をしてみせた。
 薄い唇が言葉を紡ぐ。
「でもね、それをずっと続けていれば…きっと慣れちゃうよ。どんな哀しいことだって、苦しいことだって、慣れちゃえば夢みたいに消えるんだ」
 心の表層に波紋が揺らめいた。波紋は静かに響いて、そうして深層へと伝っていく……。
 なのにテスタの口調は変わりなく続いていて。
「そのことを哀しいって思うかは、きっと人それぞれ…なんだけどね」
 …まるで海のようだ。
 セルピはそう思った。
 やわらかで穏やかな声。何故だか安心できるような、…しかしその一番奥にあるものが全く見えないような、……そんな、大海を彷彿させる声。
 うん、とテスタは独り言を言うように小さく頷いた。
「世界にはいろんな人がいるんだよ。本当にたくさん、たくさん。見ている景色も違う、考えることも違う、降りかかる事柄も…全部違う。だからね、その中には……」
 周りに生えている木々は高く、高く、空へ向かって伸びている。
 そんな葉が咲き乱れる合間に見える空を、テスタは仰いだ。
 セルピも一緒に仰いだ。
 きらきらと、その空からは陽の光が降り注いでいた。
「哀しいことに慣れないと、生きていけない、…強くなれないって思ってるひとたちも沢山いる」
 ―――それは、小さな戦慄であったのかもしれない。
 セルピは思わずテスタの顔をひたと見つめた。
 …もし、仮に。
 もっと世界が安定していて、もっと世界が住みやすくて、…階級差別など、なくて。
 そんな世界があったのなら……。
 哀しみの量は、軽減するのだろうか。
 こうした胸を切り裂かれるような想いなど知らずにいられるのだろうか。
 強くなくとも、生きていけるのだろうか―――。

 だけれど、今の世界は。
 強くなくては生きていけない。
 哀しくとも、辛くとも、歩いていかなければならない。
 だから、……だから、そんな夢のような世界を目指して、今…自分は戦っているのだろうか。

 セルピの思った通り、テスタは言った。
「もう少し穏やかな世界になったら、たぶん……そう考えるひとは、減るんだと思うよ。ぼくはその方がいいと思う。思いっきりのんびりするのが好きだし」
 あはは、と軽く笑い声を転がす。
「…それなら……」
 セルピはテスタの灰色の瞳を見る。濁りのない、全ての色を等しく映しこむその瞳を。
 ――貴族と平民の対立。
 ――どちらも苦しいのに、どちらも互いの苦しみを知ろうとしない。
 ――世界は止まったまま。
 ……そうだ。
 彼女がここまで苦しむのも。
 彼女がこうやって生きているのも。
 そして、哀しみに慣れてしまう者が多くいることすら…、
 それは、全て、

 全て、この世のシステムが『こうなっている』からなのだ。
「世界が、ボクたちを作ってるのかな」

 海の青年は、動じなかった。
「うーん、難しいね」
 ただ、わずかに瞳の色を昏くさせて首を傾げてみせただけだった。
 …セルピは、笑った。
「うん、難しいよ」
 …テスタも、一層笑った。
 どこかで鳴っている、鳥の囀り。
 深い森には、二人分の影―――。
「…でもね、セルピさんは、たぶん。…たぶん、笑ってた方がいいんだと思うよ」
 ふっとセルピは瞳を引き絞る。
 灰色の目はとても穏やかに、言っていた。
「その方がぼくも、…きっと他のひとたちも、楽しいから」

 まるで言葉は風のように過ぎていって、そうして二度と戻らない。

 しかし…確かに。
 確かに、少女の幼い心は、それに揺られて、…震えた。
 呆けたような瞳は、…次第にまた普段の彼女を取り戻していって、…そうして、いつものように笑って見せた。
 いつものように笑えたのは、本当に久々だった気がした。
「…セルピ、でいいよ」
「うん、そうかな」
「そうだよっ」
 弾んだ声を、喉が紡ぐ。

 きっと、これからも苦しいことが沢山あるのだろう。
 自分はこの世界に生まれてしまったのだから。だから、この世界の苦しみを受けとめていかなければいけないのだろう。
 だけれど、…苦しみは少ない方がいいのだと思うから。
 そんな世界を造るため、…そう、この世のシステムを変えるために、少女は歩いていかなければならないのだ。
 少女は、その道を選んだのだ。
 例え辛い道を歩くことが哀しいことであったとしても、…それでも進もうと少女は思う。
 それが未来に穏やかな優しさをもたらすのなら…それなら、少女はその痛みを甘んじて受けとめるのだ。

「テスタ君」
「うん?」
 セルピは、小さな手をぎゅっと握り締めて、言っていた。
「…ボク、強くなるよ」
 それを見つめるだけで目が眩むような、奥の見えない灰色を見据えて。
 そうして森の色を映しこんだ灰色は、そっと微笑みかけてみせた。
「頑張って」
 セルピは、再度笑って頷いた。
 ――きっと、誰にだって負けない。
 そう、喉の奥底だけで呟いて。
 呟いて―――。


 その、瞬間だった。

 心の奥底を指でなぞられたように、ぞくり、と。
 痺れにも似た、寒気にも似た…、
 恐らくそれは『予感』と呼べるものであったのだろうか。

 ―――ざ……ぁ……

 森の中を一風の風が吹き抜ける。葉が舞い散る。思わず目を細める。
「……あ…―――」
 横でテスタが、片手で首からさげた巾着を握り、もう片手を耳に持ってきて――。
「誰か……いるね」
 ぽそっとそれだけ言うと、緑の海の向こうに視線をやった。
 鳥の囀りが―――耳に届かない。
 視線の奥に、……気配。
 セルピはぎゅっと胸のところで拳を握る。
 何故だか動機が乱れていた。
 立っている周りは全て垂直に伸びる木々の群れ。眩暈さえ覚える。
 いつの間にか喉がすっかり渇いていた。瞬きすら忘れていたのか、目もなんだか痛い。
 宙を踊る葉。冬も近く、茶色い葉がまじった葉の群れがはらはらと雪のようにたなびく。

 森が続いている。

 目の前に、ひたすら森が続いている。

 …その先に。

 ――人影が、見えた。

 どんっ、と、
 心臓が、
 握りつぶされたように。

 セルピは、その人影を凝視する。

 灰色のマント。静かな、とても静かな空色の瞳。
 笑っている? …笑っているのだろうか。
 さらさらとなびく薄い黄金の髪。薄い唇、細い鼻筋、…綺麗な輪郭にふちどられた顔立ち。
「―――ルさ………」
 張り詰めた声が漏れたのをテスタが聞き逃すわけもなく、…不思議そうにこちらに顔を向ける。
 しかしセルピはそんなことも目に留まらず、ただその現実を見つめて――。
 幼子は、叫ぶように呟いた。

「ハル、さん……!」

 小さな悲鳴にも似た声に、姿を現した影は少し驚いたように目を瞬かせて…そうして、首を傾げてみせる。
「おや……、セルピさんじゃないですか―――」
 その顔も、また変わらぬ優しい表情に―――。
 やわらかな物腰で、男、ハルリオは言った。

「こんな場所で会うとは…奇遇です。お久しぶりですね、お元気そうでなによりです」


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