-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 六.あぶれたものたち

071.くさびを葬るために



 ひとが、泣き叫んでいた。
 なにが起こったかもわからず、悲鳴をあげて、怒りを露にして、恐怖に凍り付いて。
 ひとだったもののかたちが、煌々と燃える火をまとって転がっていた。
 息のひとつひとつが、炎を吐き出しているように熱かった。
 業火に焼け崩れるものの音に、耳がおかしくなってしまうかと思った。

 蓋をして隠していたものは、今、放たれて。


「…孤高の銀髪鬼クォーツ・クイールは、死んだのか?」


 喉の底から、なにかがこみあげた。吐き気ではない、しかし良い気分でもない。
 ただ、からからに乾いたその喉はそれらを紡ぐことすら許さない。
 平衡感覚など、とうの昔に消失してしまっていた。頭が重い。繋がれたように体の先まで動かない。
 答えろ、と心のどこかが呟いた。
 あの情景を。あの姿を。あの顔を…、
 これ以上逃げたら、もうどこにも行くあてなどないのだと。
 ―――喉が、小さく鳴った。
 はじめは空気を紡ぐことしか出来ない。
 しかしもう一度、呼吸をして、息を呑んで、口を、開く―――。
 もう少し、もう少し――。
 それは心の悲鳴と、共に……。


「……死んだ」


 ………。
 ……――。
 思っていたよりもずっとずっと、言葉はすんなりと放たれてしまった。
 こんなにも言葉というものは軽いものなのか。
 言ったからといって、何が変わるわけでもない。
 相変わらずそこにあるのは、なにもない、なにもない、ただの空虚感。
 そんなたった一言で全てが片付けられてしまう気がして、もう一言加える。
「…確かめたわけじゃないが、…あれで生きているとは思えない」
「やはりな」
 十分見当はついていた、という風にヘイズルは軽く肩をすくめた。
 そうして踵を返すと、どっかりと椅子に腰を下ろす。
「それでお前だけ生き延びて流浪の身か」
「……そうだ」
 机の上に置かれたランプに照らされて、瞳の栗色がゆらりと揺らいだ。
 まるで自分の瞳の奥…いや、その先まで見られている気がするその視線は、繋いでいるのが精一杯だった。
 そんなスイに、ヘイズルは口の端をつり上げて見せる。
 ゆっくりと次の言葉が放たれた。
「―――どうしてお前はそう受動態なんだ?」
 じっとりとした空気がまとわりつく。
 これほどまでに、空間は重たくなるものなのだろうか。
 気が遠くなるほどの、―――それは、耐え難い苦痛……。

 心に焼き付けられた、笑顔と、ぬくもりと、憎しみと、哀しみと、

「それで人生楽しんでるようには見えないな」
 気がつけば、忘れていた。
 否…気がつく前に、全てがすり替わっていた。
 自分が何の為に生きているかなど。
 何が楽しくてこうして生きているのかなど。

 ―――ただ、全てに諦めて、ひっそりと。

「………―――何が望みだ」
 だから、言った。
 空気を震わせて、言葉は染みた。
 心はもうずたずたに切り裂かれていたから、せめてその消失を避けられるように。
 時の流れにからまれて指の先まで動けないままに、紡ぐ。
「……俺をどうしたいんだ」
「お前は、貴族なんか憎んじゃいない。ただ憎いのは、『諦めてしまった自分』なんだな」
 横の机に頬杖をついた、その栗色の冴えた瞳がこちらを見つめていた。
「なのにお前はそれを憎むことすら諦めている」
「………」
 足の裏にじんと痛みがこみあげる。
 瞳の奥に広がる海の色はいくつもの小さな波を生んで消えていく。
 顔には何が張り付くこともなかった。
 凍えてしまった表情は、ぴくりとも動かない。
 もうその中身は傷ついてすり減って、かたちを留めることすら辛いというのに、だ…。
「…このままじゃお前みたいな奴が増えて、世界が駄目になっちまうんだよ。ただ座ったまま流れに流されるだけの人間によってな」
 ヘイズルはもう一度笑ってみせた。
 ランプにくっきりと形付けられた橙の影は、深く、深く。
「ならお前みたいな奴を減らすにはどうしたらいいか…、それは『世界を動かす』ことだ」
 いつだったか、出会った人は言っていた。
 この世界は止まっているのだと。
 しかしそれはいつしかよどみ渦巻き、ダムを壊して動き出すのだと。
 そうして、その動き出した力は誰にも止めることが出来ない――。
「絶えず移ろい変化していくのが世界ってもんさ。問題が起これば対応するために姿を変える。それの連続でこの世は動いていく」
 まるで語り部のような口調だった。
 しかしその言葉が示すのははるか昔の物語ではない。
 それは、目の前に残酷にも見えるほどに無言で広がっている、そんな現実……。
「なのに今はどうだ? ただこの世界は受け流すだけで全く変わりをみせない。そうだな、これ以上動きを止めていたら…本当にこの世界は沈んで、死ぬ」
 ヘイズルは最後の言葉を、はっきりと言い切った。
 貴族に支配されてから300年、全く動かないこの世界に向けて。
 そうして、そんな時代に作られてしまった彼に向けて―――。

「その中で、お前に何が出来ると思うか?」

 スイは黙っていた。
 その口を閉ざしたまま、佇んでいた。
 表情のない静かな顔はまるで石像のようにも映る。
 かすかな痛みを頭の中で感じながら、凍えるほどの冷たさを感じながら―――。
 ――ヘイズルはゆっくりとした動作で立ち上がると、その手を腰にやった。
「まあ御託はどうでもいいな。単にお前は力を貸してくれるだけでいいさ、細かいことは他の奴らと一緒に説明する」
 そうして、彼の横を通って部屋の扉を開く。
 すっかりこもってしまったこの部屋と違って外は明るく空気も清浄だ。そんな涼しげな風が小さな流れとなってふっと部屋に差し込める。
 そんなヘイズルの方に向けて振り向くスイは…その眩しさに僅かに目を細めた。
「さて、行くか」
 まるで独り言のようにヘイズルは呟くと、まるで迷いもなく外へと踏み出していく。
 スイもまた…、じっと目の前を見つめながらその足を動かした。

 まるで、他人の体を無理矢理動かしている気分だった。


 ***


「恐らく、もうクォーツはこの世にいないよ」
 リエナはそうぽつりと呟く。
「こちらは貴族たちの情報を探っていたからね、…そこで掴めたのがスイが生き延びたという話と…クォーツが死んだ、という話だったから」
「…それでスイを探していたのね」
「そうだよ」
 ピュラが小さく頷くと、耳元のピアスがちらっと煌いた。
 その燃えるような強さを秘めた、彼女の髪と同じ緋色のひかりだ。
「…あなたたちは一体何を目的としているの?」
「この世を動かすことだよ」
「そう簡単に動くと思ってる?」
「さあね…、でもあなたたちが思っている以上にこんな活動を地下で行っている人は多いのだよ?」
 その言葉に顔をあげたのはセルピだった。
「…地下にそんなたくさんの組織があるの…?」
 貴族たちが一番恐れていたことだ。
 だから貴族たちは平民のそんな行為に一層目を光らせていた。
 しかしそれさえもかいくぐっって存在するものがあった、ということが彼女にとって驚愕すべきことだったのだ。
「組織…といったら違うけれど」
 基本的に各々は独立していて、組織立ったものはないとリエナは説明した。
 それは一つの団体が貴族に見つかってしまえば連鎖的に他も見つかってしまうからだ。
「でも、志しているものは等しい。だから協力するときは協力する」
 ふとピュラは自分の孤児院があった町を思い出していた。
 その町は貴族によって焼き討ちにされ、…この町と同じように一夜にして滅びた。
 ――その理由が、…町ぐるみで地下に反乱を企てる者たちがいると判明したからである……。
「理想は全ての者に平等が与えられる時代…、だけれど今の目標は…貴族を、倒すこと」
 揺るぎをみせない強い意志を湛えた瞳は、そう語った。
 誰にも太刀打ちできないとされた者たちを、そのくさびを、全て葬るのだと――。

 そして、その部屋の扉が開いたのはそんな時だった。

 ぎぃ、と樹の扉が開くのと同時に大柄な男が中を覗きこんでくる。
「よぉ、取り込み中だったか?」
 全員の視線がそちらに集まった。
 筋肉質な体つきに、…一瞬人懐こいようにも見える…それでいて何かを謀っているような笑顔を浮かべた表情、…黒に近い緑の髪に栗色の瞳――。
「…あ、スイ……」
 その男の後ろにいたスイに気付いてクリュウが小さく呟く。
「…別にいい、中に入ったら?」
「そうさせてもらうか」
 男…ヘイズルはにこっと笑って首の間接を鳴らしながら中に入ってきた。
 なしくずしに後ろのスイも入ってくる。
「へぇ、あんたたちがスイの連れか。やっぱり可愛い子がいると場が華やいでいいもんだな」
「ヘイズル」
 リエナがまるでたしなめるような声をだすと、ヘイズルは苦笑まじりに小さく肩をすくめてみせた。
 そのまま椅子に座って、改めて机に座った面々を見渡す。
 ピュラもセルピもそのような視線に弱いわけがない。じっと彼の視線を見返してその様子を観察していた。
 そうして…ヘイズルは破顔して興味深そうに机に肘をつく。
「俺はヘイズル、スイの昔の知り合いだ。あんたたちは?」
「ピュラよ」
「ボクは…セルピだよ」
「僕はクリュウ…」
 各々名前を返す。ヘイズルは目を細めながら頷いて、いっそう口の端を吊り上げた。
「巻き込んじまって悪かったな。だがまあこうなっちまった以上はなんとかして生き延びてくれ」
 クリュウはスイが心配になって、そっと彼の方に飛んでいく。
 ちらっと彼の瞳を見たが…、彼は僅かに頷いただけで、言ってやれる言葉は見つけられなかった。
「とりあえず…これからの予定だな。お前たちはスイと共にちょっと貴族の屋敷に行ってもらう」
「え?」
 ピュラが怪訝な顔をするのに、ヘイズルは頬を指でかきながら続ける。
「俺たちはな、今の時点じゃ貴族に歯向かうにはあまりに非力なんだな。その貴族と俺たちの力の違いは一体なんだと思うか?」
「…お金と、兵器」
「おうちっちゃい嬢ちゃん、頭がいいな」
 ぽそりと呟いたセルピにヘイズルはいっそうその笑みを深めた。
「ならそれをごっそりと頂くまでだ。大体革命の資金ってのは貴族にこれまでやってきた罪として払わせるのが妥当ってもんだろう」
 視線をリエナに動かすと、彼女はその声を受けて代わる。
「この町から北に5日ほどいったところに小さな町がある。そこで船を持つ同志と落ち合うといい、彼らに詳しいことは伝えてあるからね」
「船に乗るの?」
「そうだよ。彼らと共に貴族の館を奇襲して、…目当てのものを奪ってくる。あなたたちの最初の仕事がそれ」
「最初っからこんなジメジメした所での仕事じゃ嫌だろ? 俺なりの配慮さ、感謝してくれ」
 ヘイズルは椅子の背にもたれかかってはらはらと手を振った。
 ピュラはそんな様子をじっと見詰めて……誰にでもわかるように頷いてみせる。
「―――分かったわ。やってくるわよ」
「疲れているところ悪いんだけどな、こっちも結構急いでるから一時間後にはここを出てくれるか?」
「別にいいけど?」
「頼もしいな、頼りにするぞ」
 まるで怖じを知らない橙色の瞳を見据えて、ヘイズルは不敵に笑った。

「ところで赤毛の嬢ちゃん、フェイズには会ったか?」
「え?」
 ピュラは思いも寄らない問いに首を傾げる。
「会ったけど?」
 その瞬間、僅かながらにヘイズルの栗色の瞳が深みを増す――。
 しかしそれにピュラが気付くことはなかった。
「…そうか、ならそれでいい」
「……?」
 意図がわからないピュラは疑問を残すままだったが、ヘイズルはその後何をいうこともなかった。

 彼は静かに目を伏せて笑う…。
「…フェイズの奴、これは苦労するな」
 無論、呟きは誰の耳に届くこともない――。


 そうしてピュラたち4人は、それから軽く地下を案内された後にまた外にでることになった。


 ***


 息が詰まるような青が広がる、空。
 薄暗い地下から抜け出したその空気は清々しく、吹き抜ける潮風も心地良い。
 町を囲むようにして立っている山は季節の変化により緑の色を少しだけ落とし、ゆっくりと橙色に染まっていく。
 辺りは全て壊れてしまった残骸しか残っていなかったが、…ほんの少しだけ夢想すればすぐにあの情景が蘇る。
 彩度の高い景色と、やわらかな風と、美しい石畳と…。

 スイはゆっくりとそれを見上げる。
 ほんの少しだけ、驚いた。
 なんとなく足を向けた先にあった自分の家だったものが、ほぼ焼けずに残っていたのだ。
 町外れの片隅に建った、小さな家。
 扉は壊されてもう姿はなく、中がさらけだされている。
 恐らく荒らされたのだろう…、外から見える中の様子はすっかり散らかって埃をかぶってしまっていた。
 そんな家に足を踏み入れることも出来ずにぼんやりと佇む。
 懐かしい潮の匂いがした。
 ゆっくりと視線を横に傾ければ、…少し離れたところに小さな高台が見える。
 あの高台の上から見る夕日の、なんと美しかったことか…。
 空も、海も、石畳も、空気も、あの笑顔さえ全てが橙色に染まっていた時間。
 もう戻ってくることはないであろう、あの永遠…。
 美しいことも、おぞましいことも、全てが穏やかに眠る町。

 ―――その中で、お前に何が出来ると思うか?

 わずかに拳を握り締めた。
 握れるものは無しかないと分かっていながら、それでも。
 一体自分が何を望むのかも分からずに、ひたすら戸惑う。
 全てを失った自分に、何が残されているというのだろうか―――。
「スーイー?」
 ふと目の前をみると、…いつの間にきていたのだろうか、すぐ傍で赤毛の少女が首を傾げていた。
「なにやってるの?」
 他人から見れば単なる滅びた町並みの一角でしかない場所で一人立っている自分に疑問を持つのは当たり前か。
 しかしその間になにか見えない壁が出来てしまったように思えて…、何を言い出すことも出来ない。
 どこかいつもの変わりない笑顔も、遠いものに感じてしまう。
 もう、自分は何も感じることが出来ないのだと、そう思っていた。

 ―――すると。

 彼女は無言の彼をじっと見詰めた後…、おもむろに手を伸ばした。
 その白い手はゆっくりと近付いてきて―――、

 …ふにっ。

 頬をつねって、ひっぱった。
「………」
「………」
「……」
「……」
「…どうしたんだ?」
「あ、なんだ起きてるんじゃない。また目開けたまま寝てるのかと思ったのよ」
 本当に驚いたように手を離して、また首を傾げる。
 ふわっと宙を舞う豊かな緋色。
 その瞳に溢れるほどのひかりを湛えて、娘はそこに立っていた。
「ほら、なに突っ立ってるの? そろそろ出るから呼びにきてあげたのに」
 そんな姿にかぶる、少女の姿。
 美しい町並みに浮かび上がるあの笑顔と、声と……。
 頬の感触がやたらと残っていて、思考が遮られる。
「……行く…のか?」
 瞬間、ひくっと彼女のこめかみが引きつった。
 そして彼女のしなやかな足が美しい動きで振りあがり視界を埋め尽くすのは一瞬のことであった。
 ――どがっ!
 おもしろいくらいに顔面に足の裏がめり込んで、スイはそのまま後ろに倒れる。
「あんたね!! やっぱり話聞いてないじゃないっ! 私たちはこれからグリニギルって街の酒場でテスタって人と落ち合うことになってるのよ!」
「………ああ」
 なにがどうなったのか半分分かっていない頭で返した。
 何故だろう。
 何故なのだろう。
 どうして彼女は、なにも変わらずにいれるのだろう…。
「うじうじしててどーすんのよっ! ほら早く立って!」
 ぐいぐいとマントをひっぱられて半ば無理矢理立たされる。
 スイは、ピュラの顔を見た。
 …瞳がわずかに、はじける……。

 その顔は、いつもの笑顔を湛えていた。

「…なによ、あんたがクォーツの弟だったからって私からの態度が変わるとでも思った?」
 背にはいっぱいの太陽を浴びて……。
 印象よりもずっと小さな体だというのに、その全身から限りない力が放たれている。
 そう、それがピュラという人間であり、強さでもあった…。
「あのねえ、あんたがどうこうしたって私には関係ないんだからね! あんたはスイ、それだけじゃない! なにもかもが終わっちゃったみたいな顔してんじゃないわよっ!」
 …そうしてじっとスイの瞳を見つめる…、その橙色は何故だか温かく。
「…なによ、文句があるなら表にでなさい」
「……ここは表なんだが」
「一々うるさいわねッ! ほら、行くわよ!」
 言いながら、華奢な手でスイの腕を掴んだ。
 ぐい、と娘にしては人一倍強い力で否応なしに連れて行かれる。
「…ピュラ」
「なによ」
「…どこに行くんだ?」
 ――どかどかどかーっっ!!
 スイは瓦礫の山に没した。
「何回言わせたらわかるのよ!! だからグリニギルって…」
「…町の出口に向かってるんだよな?」
「そうよ!」
「…そっちは反対方面なんだが」
 …………。
 ピュラが、押し黙る。
 ひゅう、と虚しい風が過ぎ去っていった。
「……そ、」
 そしてわなわなと肩を震わせるピュラは、次の言葉をなんとかして続ける…、
「そういうことは早くいいなさいよねーっ! ていうか大体この町が入り組みすぎなのよ!」
 色々と責任転移をしながらスイを無理矢理ひっぱりあげた。
「…ところで」
「なによっ!」
「どうして俺がここにいると分かったんだ?」
 確かに町は結構な広さを持っているため、その中から一人を探すのは至難の業だろう。
 するとピュラは僅かに沈黙した後、…言葉を続ける。
「…ヘイズルに聞いたのよ。きっとこの辺にいるだろうって」
「………」
 スイは暫くピュラの顔をじっと見つめて…、目を伏せた。
「そうか」
「あんたの家、この辺だったの?」
「ああ」
 小さく頷いて、元来た方向に視線をやる。
「…あの家だ」
「え、あの角から2番目の? …綺麗に残ってるじゃない」
「そうだな…」
 ピュラはそちらに向けて歩いていって、…二階建ての家を見上げた。
 大空の青を背景に背負った、所々焼け焦げてはいるがまだきちんと原型を留めている漆くいの家だ。
 彼が拾われてきてから、住み着いていた場所…。
「……家、かぁ……」
 ぽそっと呟いたピュラを見て、スイは気付いた。
 …彼女は生まれてから一度だって家を持ったことがないのだと――。
 そんな娘は暫く考え事をしているかのように、見上げたまま動かなかった。
「ピュラ」
「…感謝しなさいよ、あんた。たった数年だけだけど、ちゃんと帰る場所があったんじゃない」
「………」
 じっと隣で佇むスイに、ピュラは小さく笑ってみせる。
「色々失くしたのかもしれないけれど、良い思い出くらいはとっておいてもいいじゃない?」
 穏やかな秋の日差しにピアスは揺れる都度にきらきら輝いていた。
 ふふっといたずらっぽく笑って、彼の腕を軽く小突く―――。
「はい、返事は?」
 まるで歌っているかのような声。
 …さん、はい、と流れに沿って魔法をかけられたかのように自然と口が動く…。
「……そうだな…」
 スイはもう一度、その家を見上げる…。
 いつだったか、一人の少年に手をひかれて連れてこられたあの夕暮れ。
 いつだったか、剣を携えて大きな影を追った昼下がり。
 いつだったか、小さな少女が迎えにきたあの眩しい朝。
 いつだったか―――。

「さーて、そろそろ行かないとクリュウとセルピが心配するわよ。案内よろしくね」
 ――そうして、今。

「……ああ」
 隣には太陽のひかりを全身で受けて、軽やかに笑う少女…。

 ただ、漠然と思った。

 この体は、この心は、もしかしたら…まだ生きていけるかもしれない。

 陽だまりの中でそんなことを考えながら、横の娘の気配を感じていた…。


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