-Bitter Orange,in the Blaze-
上・灰色の時代 五.眠れる古代都市

061.うたかたの夢



 それは夢の続きなのだろうか。
 人というものは、どこから入ったのかも分からずに夢へと迷い込む。
 いつ自分は眠ってしまったのかさえ知ることはない。
 そして漠然と、そこにいる自分を見つける。
 前にあるのは虚無か、それともなにかの空間か―――、
 …ぼんやりと浮いている気だけが遠くなる。

 ただ、わかるのは自分が歩いているということ。
 そうだ、いつだって自分は歩いている。
 歩くのをやめたらそれは死と等しいことなのだから。

 まずはじめに、優しい声が聴こえた。
 諭すような声。のびやかで美しい女性の声。
 長い紫紺の髪に、しなやかな体つき。
 知っている。知っている人。
 そういえばあの人、今頃どうしているのだろう。
 自分の師であった人。
 悔しいけれど、尊敬していた。
 共に旅をした土地が見えた。
 見る、という感覚ではなかったかもしれない。むしろ感じるという方が近いのか…。
 長いあぜ道。深い緑の山。人の行き交う町の色。
 その女性を追って歩いていた道。
 全てを灰色だと思っていた幼い自分は、鮮やかな色をはじめて知った。

 ゆっくりと足は前へ前へと歩いていく。
 まるで別の自我に支配されたかのように、身勝手に動いていく。
 しかし自分はそれに抗おうとも思うことなく…。
 じっと、その様子を伺っていた。

 冷たい風。身を切るような風。
 思わず自分の腕で自身を抱きしめた。
 暗い道。戸惑い迷うような、入り組んだ道。
 色んなものがまざった嫌な臭い。
 知っている。知っている景色。
 泣いたって、叫んだって、救われはしない。
 ただ、生きたいとだけ思って生きていた。
 こんなところで負けたくはないと、そう思っていた。
 自分に負けたくはなかった。
 路地をさまよう小さな影がひとつ。
 傷ついた足をひきずりながら、歩いている姿が続いていた。
 小さな小さな崩れてしまいそうな体。
 しかし瞳だけがぎらぎらと光を宿し。
 凍えついた瞳はなにを映すことも忘れて。
 …つめたい。
 逃げ場もない。
 普通に暮らすことのできない者が集う、町の裏。
 刃のように粗く鋭利な空気に切り刻まれながら、生きていた。

 そう、ずっと歩いてきた。
 この足で、歩いてきた。
 止まるわけがない。
 どんなことがあっても、生きていくのだから。
 ―――生きてみせるのだから……。

 景色は変わって、次は小さな部屋へ。
 長い髪をおさげにした少女がぱたぱた駆けている。
 知っている。
 忘れるはずがない。
 窓から差し込むやわらかな午後の日差し。
 驚くほどに晴れた空。
 静かに過ぎる時の流れ。
 今はもうこの世にいない少女の姿。
 最後まで抱きしめていた、本当に幼い子。
 くるくる移ろう表情。
 跳ねて、飛びついて、笑う。
 まるで妹のように可愛がっていた…、
 よく遊んだ裏庭の淡い緑。窓の外に広がる町の情景。暗い暗い森の中。
 冷たく、苦しい森の中…。
 瞳に焦げ付いた炎のイメージ。
 吐き気がした、長い一夜。
 そういえば、あの頃はもう少し―――。


 回廊を歩いていく。
 長い、長い、人の道という回廊を…。
 しかしふいに歩き続けていた足が止まったのは、彼女がなにかの音を耳にしたからであった。


 音の連なり。
 言葉の連なり。
 高い、低い……、
 ―――――歌、だ。
 歌が聞こえる。
 知らない、歌…。
 聞いたことのない旋律。
 歌っているのは、幼い子供……。
 知らない。
 知らない、この光景は。
 こんなものなど、記憶にはない。
 意味のわからない映像。
 甘い声で囁かれる歌声。
 舌足らずな言葉が途切れ途切れになって、
 ゆったりとした調子で、流れていく―――。

 困惑するしかない。
 今までに見えたものは、はっきりと覚えている自分の歩いてきた道。
 しかし、これは……?

 自分を見下ろす瞳。
 降り注ぐ、歌声……。
 なんという言葉を紡いでいるのかも定かではない。
 しかしそれはなんと純粋で甘美な―――。
 そう、その真っ直ぐな歌は優しい。優しすぎる…。
 知らないのに。
 知らない歌な筈なのに。
 あまりにも甘い歌が、胸を切り裂く。
 不可解な動悸がする。
 気分が……悪い。
 わずかに微笑んだ口元。
 ふんわりとした優しい匂い。
 ――息苦しい、ぬくもり。
 静かな灯火が灯った部屋。
 何故だかわからない。
 しかし、痛い。
 痛くて仕方がない。
 心の殻にそれは波のように殴りつけてくる。
 幾度も幾度も繰り返し、突き刺さる。
 理由などわからない。全ての理屈を跳ね飛ばして襲い掛かる、あまりにも強いイメージ…。
 こらえきれない、支えきれない。
 なにか…なにかの大切にしているものが、壊されてしまう……。

 ――風がすべてをさらっていって
        落ちて消えた かげぼうし

 優しい言葉がひとつ、ガラスの破片となって胸を刺す。
 染み入るようにあたたかいのに、凍えるほどにつめたい―――、

「…………やめて」

 ――夜のにおい 今はもう
       おひさましずみ 帰る時間

 目蓋に映る、歌をいつまでも歌う子供。
 その喉がつぶれるまで歌う子供。
 短い歌を幾度も幾度も繰り返す。
 舌足らずな口で紡ぐ、本当に小さな言葉のかけら。
 幼く、愛らしく、そしてトゲのように突き刺さる。
 そこに込められたのは祈りでもない。
 願いでもない。
 子供にしかありえない、純粋なもの。
 残酷なまでに、生粋なもの。
 いつまでも終わらない歌。
 小さな小さな部屋の中。
 出して、ここから出してと心だけがわめき散らす。
 知らないはずなのに、体の中心が砕け散ってしまう。
 あまりにも、あまりにも、時の流れはゆるやかすぎて…、
 そう、その子供は、

 ただ、

 ただ、

 くるおしいほど、に――――。


 どん、と体が殴られたように圧迫されるのを感じた。
 頭の中ががんがんする。喉の奥からは、つんざくような吐き気…。
 まるで自分が自分でいられなくなるくらいに―――!
「――――やめて!!!」


***


「ピュラっ!」
 はっとなってピュラは顔をあげた。
 反射的に手が口元にやられる。
「……どうしたの?」
「…え、―――」
 目の前に、セルピの姿。
 いつもと変わりなく、少し不安そうに首をかしげている。
 ピュラは辺りを見回した。
 目の前にセルピ、横のスイもこちらに視線を向けている。
 そして歩く先にはさきほどと同じ、通路……。
 先ほどまで歩いていたはずなのに…全員が立ち止まっていた。
「大丈夫? 突然立ち止まったりして…」
「え? …ええ……」
 どうやら最初に立ち止まったのは自分らしかった。
 いや、…とピュラは思う。
 今、自分は一体何を見たのだろうか?
 なにかを見ていた、そこまでは覚えている。
 しかしまるで夢の中の出来事のように、その光景はぼやけたものとしてでしか思い出すことができない。
 なんとなく頭の中にもやもやとした灰色のものがわだかまっているように思えて、彼女はこめかみを軽く押さえた。
「…お、おかしいわね…なんかぼーっとしちゃって」
 スイの歩きながら寝る癖がうつったのだろうかとも思う。
「ほんとにだいじょうぶ…?」
「ええ、…ちょっと疲れたのかしら、どっかの羽虫のお陰で」
「そんなあ…」
 クリュウが弱々しい抗議の声をあげるが、先ほどの一件もあるのでおとなしくスイの影に隠れたままだった。
 ピュラは小さく吐息をついてからゆっくりと足を前にだした。
「……なにか見えたのか?」
 ―――その足が、また止まる…。
「……え?」
 眉をひそめて横を向けば、スイの瞳。
 黒よりも深い深い、海の青。
「そういう目をしてるから」
 ふいっとスイは視線を外して歩き出した。
 何故だかその言葉が妙に胸を刺して、痛む。
「………何も見てないわよ」
 だからピュラは小さく呟いて自らまた歩き出した。
 さきほどの感触の残り火は忘れてしまおうと思う。
 今の自分はなにも問題ないのだから。
 だから、そのことに触れる必要はない。
「うにゅ……?」
 どこか怒っているようにも見えるピュラに疑問を隠せないセルピが、その後ろに続く。
 やっと出口が見えかけてきたころまで、誰一人として口を開くものはいなかった。


 ***


 ぶわりと体をなぶる風の嵐。
 あまりにも鮮烈に網膜へ焼きつく緑のイメージ。
 思わず目を細めた先に、一人の少女が見えた。
 その少女……ナナクル・ナチャルアは腰掛けていた石の塀から飛び降りると、暗がりから抜けてきた者たちの元へと歩き出した。
「…うまく出てこられたようだな」
 小さくはあるが、怖じをみせない覇気のある強い声がその小さな体から語られる。
「わあ……っ、外にでられたっ!」
 そのまばゆい光を体中に浴びたセルピが歓声をあげた。
「うまくってねえ……、死ぬかと思ったわよ」
 座りきった目で口を尖らせるのはもちろんピュラだ。
 ナナクルの杖の飾りがしゃらん、とまた涼やかな音を鳴らして揺れた。
「これで試練は終了となる」
 そういうなりくるりと背を向けて歩き出す。
「あ、あのナナクル……」
「なにか用か」
 ばつが悪そうにクリュウはナナクルの背に向けて言った。
「………結構…遺跡の内部、壊しちゃったんだけど……」
「心配ない」
 かすかに振り向いてナナクルは返す。
 腰まである一房の三つ編みが軽やかに揺れていた。
「すぐに直せる」
 …確かにこの遺跡の力を持ってすれば簡易な修復など造作でもないのかもしれない。
「よかった…」
「それで、」
 ピュラは一番重要な話題を切り出した。
 当たり前だろう、そのためにこんな遺跡の中へと入ったのだから。
「村はどこにあるのかしら?」
 ナナクルは今度こそしっかり振り向いて、返した。

「……わからない」

 ………。
 ……。
 …。
 ひゅう、と一風が、ナナクルとピュラたちの間を通っていった。
 見事に石化するピュラたちの前でナナクルはにべもなく続ける。
「彼らは遊牧民だ。日によって村は移動する。…今いる正確な位置はわからない」
 ピュラの額に、血管がひとつふたつ、浮き出た。
「ナナクル……」
 拳をわなわなさせる彼女の熱気にクリュウは思わず後ずさった。
「あんたねえ!! ふざけんじゃ」
「あのな! 人の話は最後まで聞け!」
「はい?」
 ピュラが、止まる。
 いかにも不機嫌そうな顔をしているナナクルは、ポケットに手をつっこんで中から小物を一つ取り出してみせた。
 それはオカリナだった。丁度彼女の小さな手に入るくらいか…。
「全くこれだから下界の民は……。このオカリナで合図すれば、村のものは示された地点まで移動する。そこに行って会うといい」
 随分古ぼけたオカリナだった。もしかしたらナチャルアの守人が村と連絡をとるために代々使っていたものなのかもしれない。
「へえ…便利なのね」
「村の者とはいつでも連絡が取れるようにせねばならないからな」
 ナナクルは言いながら辺りを見回して―――、遺跡を離れたずっと先にある小高い丘を指差した。
「…あの丘に村の者を呼ぶ。これからここを出てあの丘まで行けば丁度会えるだろう」
 そのとき、ふっと風が大地をかすめて通り過ぎていった。
『成功したようですね』
 …人一人が乗れるくらいの大きさの獣……、チャカルが静々と歩いてくる。
 そこには少なからずともピュラたちの合格を喜んでいる感が垣間見えた。
 光を宿した瞳がピュラたちに向けられ、そして細められる。
『村の者もきっと歓迎しますよ』
「村って…どれくらいの規模なの?」
 セルピが問うと、ナナクルの方が答えた。
「百人にも満たない村だ。外と関わりをもたないようにしているからな」
「じゃ、あの丘まで行けばいいのね」
「そういうことだ」
 ナナクルは言い切って、また背を向けた。
『それでは出口までお送りしましょう』


 ***


「貴族が攻め込んでくるかもしれないのは…大丈夫?」
「私を誰だと思っているのだ」
「うん、そうだね…」
 セルピは小さく笑って、そして大きく笑った。
 ナチャルアの巨大な門。その先に広がるのは、あまりにも雄大な草原と、山――。
「もちろんこれからは厳戒態勢をとる。この遺跡には何人たりとも冒涜者を入れるわけにはいかない」
「頼もしいわね」
「当たり前だ」
 とん、と杖の先を地につける。
 涼しげな音色だけが、風になびいて運ばれていく…。
「それじゃ、行きましょっか」
 軽く手を叩いてピュラは広大な草原の先へと目を向けた。
 空は快晴、雲の一つも見当たらない。
「お世話になりましたっ」
 セルピはぺこんとお辞儀をして歩きだす。
「道中気をつけるんだぞ」
「いわれなくたってわかってるわよ」
 軽く笑ってピュラも歩き出す。
 スイもクリュウも、後に続いた。
 後姿は段々と遠くなり、そして次第にかすんで見えなくなっていく。
 それはどんなにこの地の空気が透き通っていても、だ…。
 ナナクルはそんな後姿を見送りながら、杖を壁に立てかけて静かにオカリナをかかげた。
 瞳を閉じて、祈るように呟く。
「……精霊の御名において」
 また、暫くの間を経てから…、
「……そしてあの者たちに、この世界に、精霊の加護のあらんことを――」
 瞳を開いた。
 まばゆい光がいっぱいに、降り注いでいた。
 空は美しい、どこまでも美しい、のびやかな青。
『……これから忙しくなりそうですね』
「………はい」
 囁くように言ってから、決意したようにオカリナを握り締めると…、ゆっくりとそれを奏しはじめた。
 乾いた、それでいてふんわりと広がる音色が放たれる。
 恐れもなく、揺らぎさえないまっすぐに飛び上がる音。
 それは噴水のように空で散り、風に運ばれて、旋律がどこまでも響き渡っていく。
 …まるで、世界へと語りかけているように。

「……あ、オカリナの音…」
 クリュウが耳を張って、その音を聞きつけていた。
「ほんとだ…、綺麗だね」
 セルピもまた振り向いて、その音の中心へと視線を向ける。
 強く響き渡り、そしてゆるやかに流れていく単音の曲。
 ごうごうとうねる風の音と調和して、大地に染み渡るように溶けていく。
 遠く遠く、それは何処まで届くのだろうか。
 たった数分の演奏だったが、まるでそれは夢のように永遠であり一瞬の出来事であった。
 それが終わってしまえば、その辺りは普段と変わらぬ風の強い聖地となる。
 彼女たちが訪れたことさえ、夢なのだと思えるほどに……。
「……ほんとにこれで来るのかしら」
 まだかなり遠くにある丘を目指しながらピュラがぼやく。
 …結局その晩は草原の一角で野宿することになり、一行がその丘へとたどり着いたのは次の日の昼ごろだった。


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