-Bitter Orange,in the Blaze-
上・灰色の時代 四.あたたかな雨

045.それぞれの辿る先



 樹海と草原を繋ぐ町、イシスファ。
 世界的にも注目されるほどに石の文化が進んだ町であり、壁などもほとんどが石を積み上げられて出来ている場所だ。
 大通り以外は全て細い石畳に覆われたこの町では、太古にこの地で起こった戦争の際に石の壁をもってして幾人もの人間たちが戦ったという。
 樹海を抜けると、冷たく透き通った空気が空の青に深みを加えていた。
「えーっと、この町の次がナチャルアへの最後の町になるわね」
 町の入り口に貼られた大きな地図を見てピュラは行き先を確認した。
 ここからは草原の山へと入り、一度また町を一つ通ってからその山の奥にあるナチャルアを目指していくことになっている。
「うん、町に活気もあるし、貴族がのさばりまくってるってわけじゃないみたいね」
 そう呟いた瞬間、ふいにセルピの顔が険しいものになったのに、彼女は気付いただろうか…。
「どうしましょっか。それぞれ買い物もあるだろうし、宿もとっとかなきゃいけないし…」
「別行動がいいんじゃないかな?」
 予想外の台詞を口走ったセルピにピュラは首を傾げた。
「あら、珍しいじゃない。あなたが別行動したがるなんて」
「にゅう、だってボク、露店に行きたいから…つき合わせちゃよくないかなーって思って…」
「―――あんたも成長したじゃない。そうね、じゃ別行動にしましょ。私は宿とっておくからね」
「スイ、僕たちはどうする?」
 クリュウが訪ねるとスイは腰の剣を見てわずかに頷く。
「…鍛冶屋に行く」
「剣の手入れって大変よねー。よし、じゃここで解散としますか。夕方までには宿に来るようにね」
「うんっ」
 セルピは頷くと同時にとことこと走っていってしまった。
 そのまま人の流れにまぎれるようにして姿を消す。
 …ピュラはその後姿を見送りながら頬に手をあてた。
 少し考えるような仕草をしてから、溜め息をひとつ。
「…やっぱり最近ちょっとおかしいわね…」
 その言葉にクリュウが耳を跳ねさせて首を傾げる。
「セルピが?」
「ええ。あの子、なんか落ち込んでるっていうか…。前も私になにか言いかけてなんでもないって言ってたし、イザナンフィ大陸では元気なかったし、それで今回の一人で行くなんて摩訶不思議な行動…」
 目を伏せてピュラは考え込んでから、頷いた。
「絶対になにかあるわね」
「本人に聞いてみたりは?」
「いいのよ、あの子が話したいと思ったときに話せば。いちいち心配ばかりしてたらあの子の為にならないわ」
 ピュラは手を後ろで組んで一歩二歩と歩き出す。
「それにセルピのことだしね、どう大したことじゃないんでしょうけど。じゃ、私は行くわね」
「ああ」
 彼女は手をひらひら振ってからセルピと同じように人ごみに姿を消した。
「スイ、…僕たちもいこうよ」
「そうだな…」
 スイは頷いて、流れる人の波に目をやった。
 溢れるほどの自然の中で生きるこの地域の人々は表情豊かで、町の市場にも素朴な雰囲気が滲んでいる。
 まるで違う、ここから北の自分の故郷とは…。
 本当に同じ大陸の人間なのかと思うほどに、そこには澄み渡った空気が広がっていた。
 貴族の屋敷のようななめらかな石ではなく、ごつごつとしていて不規則に並べられた石で出来た町は、やわらかな美しさを保っている。

 むせかえるような血の臭いも、人の冷たい瞳も、そこにはない。

 露店の花が一杯にその美しさを咲かせていた。
 前を通れば、ふんわりとした少し甘い匂いが鼻をつく。
 追いかけっこをしているのか、戯れながら走っていく子供たち―――。
 スイは一度だけちらりと花の群れに目を向けて、また伏せていた。


 ***


「お、旅人さんか。剣の手直しだな?」
 店の扉を開いた瞬間にでてきた威勢のいい主人に、スイはこくりと頷いてカウンターに剣をおいた。
 主人は鍛冶屋ならではのいかつい顔をしているが、その顔は人懐こく笑いかけてくる。
「へえ、妖精まで。珍しいねえ、精霊なら見たことあるんだけどな」
「あ、どうも…」
 スイの肩に腰掛けていたクリュウはついと飛んでカウンターの上で軽く会釈した。
 この辺りの人間はあまり旅人たちに好意的ではないと聞いていたが…、主人にそんなそぶりは全くなかった。
 彼はスイの剣をすらりと引き抜いて、天井の明かりにかざしてみせる。
「おお、いい剣だ。使い込んであるな…長く使っているのか?」
「…とりあえず」
「ははは、そこで座って待ってろよ。汚えところだが、すぐに終わるからな」
 主人は破顔したまま剣を片手に、カウンターの向こうの作業机に歩いていった。
 腕まくりをして、もう一度まじまじと剣を眺める。
「きちんと手入れされてるな。このまま続けばあと数十年かるく持つぞ。あんたにせがれができたら継がせられるな」
 僅かながらに刃こぼれしているところを目ざとく見つけては目を細めている主人をスイはぼんやり見ていたが、…ふとカウンターの奥の扉が開いたのに視線をあげた。
 飛び出すように扉から登場したのは、まだ8歳ほどの少年だ。
 少年はスイの姿を見てぱちぱちと目をしばたかせて…、ぱっと笑顔を見せた。
「うわあ、旅人さんっ!?」
 叫んだと同時に転がるようにしてスイの方に走ってくる。
 怒声がとんだのも同じ瞬間だった。
「こらドナ!! 客に迷惑かけるんじゃねえ!」
 既に迷惑がかかっていそうなほどの大音量で主人がどなると、ドナと呼ばれた少年は口をとがらせた。
「なんだよオヤジ! 旅人さんだよ旅人さん! 少しくらい話したっていいじゃねーかー!」
「だーもう…悪いね旅人さん、まだチビなもんで」
「うちのオヤジも声がデカくてすいませんねえ、旅人さん」
「ドナ! てめーはすっこんでろ!」
「んだよ! 事実をいってなにが悪い!」
「なんだと、こんのドラ息子!」
「うるせえクソオヤジ!」
「いったなチビ!」
「チビに生んだのは何処のだれだー!!」
「このやろー!! 大体お前はなあ…」

 ……。

 …。

 ―――…一通り互いの罵りあいが終わったころには、随分の時間が経過していた。
 怒声と罵声のぶつかりあいに、人よりもずっといい聴覚をもつクリュウは眩暈をおこしていた。
 主人は剣の手入れに勤しみはじめ、金属の擦れる音が室内に響いている。
 結局少年はその場にとどまってスイの横に腰掛けていた。
 ぶらぶらと足を揺らしながらその少年は暫し沈黙する。
 そしてそんな彼はスイの横顔を見上げた後に…、意を決したように話をきりだした。
「旅人さん!」
「なんだ?」
 きらきら輝く目で、少年は言った。
「旅人さんは、剣術をどうやって身につけたの? 人に教わって? それとも自分で?」
 …カウンターに座っていたクリュウの顔に、一瞬だけ影がさす。
 しかしそれが一瞬だったのは、その後ろから罵声がとんだからだ。
「ドナ! いらんことを聞くんじゃない!」
「いーじゃねーかこのくらい。ね、旅人さん!」
「…そうだな……」
 …答えているというよりは、むしろ答えを探しているように思える返事だったが、少年は目をいっそう輝かせた。
 耳が大破しかけて悶えているクリュウを横目にスイは淡々と頷く。
「人から教わった」
「そっかー。やっぱり師匠が必要なんだな。俺さ、クイールみたく強くなりたいんだ! 孤高の銀髪鬼なんて通り名、かっこいいよなー!」
 ……。
「…そうだな」
 カウンターの向こうから主人も頷いた。
「孤高の銀髪鬼クイール…か。昔そんなヤツもいたな」
「昔って、数年前だろ? きっと今もどこかで生きてるさ!」
「お前なー、死んでるだろ普通。いまだに消息不明で誰も見ちゃいねえんだぞ」
「そんなことねーよ!」
 …少年はいきりたって席から立ち上がる。
 小さな体全体から、若々しい力がみなぎっているようだった。
「きっと生きてるよ!クイールは生きてるにきまってる。だってむっちゃくちゃ強かったんだろ? 貴族中に名前をとどろかせたって人が、殺されるわけがないじゃないか!」
 孤高の銀髪鬼クイール。平民であり、その力故に数多の貴族に雇われ仕事をこなしたという男。
 そして、ゆらめく炎の中に姿を消した、幻の剣士…。
「どんな敵だって返り討ちにするさ! ね、旅人さん。きっと生きてるよな」
「………」
 スイは、座りなおした少年の目を見下ろしていた。
 理解を求める大きな瞳。そこに眠るのは希望と、『最強』という名への果てない夢――。
 心が、音もたてずに大きな波紋を生んでゆらめいた。
 どこかで耳鳴りがする、気が遠くなってしまいそうな―――?

 …彼は、言っていた。

「生きてる」

 不安そうな顔をしていたクリュウが、見えないところで歯を噛み締めていた。
 スイは石に刻むかのように、その言葉を繰り返す。
「きっと生きてる」
 みるみる少年の顔に光が宿って、笑みがこぼれる。
 威勢のいい声で、少年はカウンターの奥に向かって叫んだ。
「ほーら生きてるってさ! やっぱりどっかで元気にしてんだよな。一度会って剣術習いたいなー」
 いっぱいの笑顔をスイになげかける少年。
 スイは、わずかながらに頷いていた。
「旅人さん、わざわざバカ息子にあわせなくてもいいんですぜ?」
「ふん! オヤジにはロマンってのがわかってないんだよっ! ね、旅人さん!」
「全くしょうもない息子が……――――ん? ああそうだ」
 ふと主人は顔をあげてスイに視線をやった。
 そして骨張った顔でにかりと笑ってみせる。

「旅人さん、知ってるかい? クイールには相棒がいたらしいって話」

 クリュウは、思わず振り向いていた。
 相変わらずの笑顔を振りまく主人の顔を、少し呆然としているように見える瞳で見つめる。
「そいつも随分強かったらしいな。それでその相棒の方は生き残って今も世界を旅してるそうだ。そいつに聞けばクイールの生死もわかるんだろうけどな」
「………」
 スイはなにそぐわぬ顔で主人の話を聞いていた。
「へえ、その人も強いんだ。ならその相棒にも会ってみてーなー」
「お前じゃ無理だな。まず旅に出た瞬間魔物に食い殺されるぞ」
「べーだ、オヤジみたいに太ってないからすぐに逃げられるよ!」
「なんだとこの!」
「おう家庭内暴力か!」
「うるせえしつけだっ! てめーみたいなヤツは一からカナヅチで叩きなおしてやる!」
「歳なんだからあんまり動かない方がいいんじゃねーのー?」

 …論争の中で、クリュウはスイの瞳を不安そうにゆらぐ視線で見つめていた。
 スイは軽くかぶりを振って気にしていないことを暗に伝える。
 クリュウもわずかに頷いたものの――――、表情が冴えることはなかった。
 ―――スイは、少年の顔を見る。
 夢や憧れをいっぱいに抱いた少年を、だ…。
 そういえば、自分はこのくらいの歳の頃になにをしていたかと思う。
 …思った瞬間に、荒地の光景がたった一瞬だけ目の前でフラッシュした。
 どこまでも深く続く、橙色のイメージ。
 …重い剣に手をまめとあざだらけにして。
 鉛のように重かった腕、感覚が失せた指先。
 息をきらして、それでも大地を蹴って。
 金属がぶつかりあう音に混濁を始める意識、ぼやける視界。
 …泥にまみれて、眩しい夕日に目を細めて―――。
 ――全く違う、この子供とは。


 ―――だってむちゃくちゃ強かったんだろ?

 ―――貴族中に名前をとどろかせたって人が、殺されるわけがないじゃないか!


 ―――どんな敵だって返り討ちにするさ!


 胸のあたりに鈍い痛みが走って、スイは視線をそらす。
 孤高の銀髪鬼、クイール。
 数年前に消息を断った、最強と謳われた剣士…。
 一つ一つの言葉を思い出す瞬間に、また痛みが走る。
 ただ、昔と変わったのは、彼の顔にその痛みが全くでなくなってしまったことだ。
 まるで、慣れてしまったかのように―――。
 今日も彼は、なにひとつとして表情に違うものをだすことはない…。


 ***


 セルピは、壁を背にして石畳に目をおとしていた。
 ちらりと騒がしい大通りに目をむけるが―――、最後はまた逸らしてしまう。
「……逃げちゃ、いけないのにね…」
 自分でもなんて矛盾していることをしているのかと、笑った。
 影を断ち切るためにここまで来た。あやふやなことをなにもかも失くすために、ここまで来たのだ。
 自分から、飛び込んだのだ。
 なのに、目の前にそれを見つけると、途端に足がすくむ―――。
 脳裏にそれぞれの仲間が思い出された。
 ピュラの呆れ混じりにも自分を引っ張っていってくれる強さ。
 スイの静かな顔に見え隠れする優しさ。
 クリュウの、いつだって心配してくれるあたたかさ―――。
 明るい輝きをまとった、大切な人たち。
 それがいつか消えてしまうのが、不安で…。
 なにひとつとして、打ち明けられない。
 彼らをよく知っているからこそ、話しても…きっと軽く笑って、冗談でもとばしながら力になってくれるに違いない、そう思えるのに…。
 迷惑をかけるわけにはいかないという意志が、彼女の口をつぐませていた。
 いくら彼らが強かったとしても、自分が立ち向かおうとしているものはあまりにも大きすぎる…。
 このままでは最悪の結果を招くことになるかもしれないことは、痛いほどにわかっている。
 だから、一人。一人で立ち向かわなくてはならない。
 しかしそれは何の理由もなしに自分を信用してくれたピュラたちを裏切ることに等しい。
 真実を知った彼女たちの顔を想像するだけで―――、胸にじくりと薬品で溶かされたような痛みを感じた。
 拳を握って、胸の上におく。
 それをもう片方の手で包んで、…力をこめる。
 軽く俯くと、北の出身の証拠である黒髪がぱさりと揺れた。
 まるで神に祈るかのようなその姿は、儚くふいに消えてしまいそうにも思える。
 …立っているのが、辛くすら感じる……。
「あっ、頭上に魔物が!!」
「えっう、うにゃぁあっ!!」
 ―――どしんっ!
 突如降りかかってきた言葉に肩を飛び上がらせて尻餅をついた。
 …恐る恐る見上げると、見慣れたピュラが呆れた顔で手を腰にやっている。
 幸福と再生の象徴であるガーネットのピアスが揺れてきらきら光っていた。
「あ…ピュラ…」
「まーったく、近付いても気付かないからいけないのよ。こんなところで何やってるの?」
 立ち上がろうとすると、面倒くさそうにしてはいるがきちんと手をかしてくれるピュラの笑顔に、胸がまた痛む。
「え…うん、遊んでたら疲れちゃって」
「裏道に長居は危険だっていってるでしょ。あんたみたいな子、すぐにアメでつられて人さらいに売り飛ばされるわよ」
「ご、ごめん…。ね、ねえピュラ、宿はとれたの?」
「ええ、じゃなきゃ今頃ここにいないわよ。ほーら、行くわよ?」
「う、うんっ!」
 なるべく笑顔を自然に保って、セルピはピュラの後を追った。
 大通りにでると、強い日差しが眩しい。
 比較的大きな町は活気があり、全てが輝いているようにさえ思える。
「あら、あれスイじゃないかしら」
「え、どこどこ?」
 辺りを見回すと、丁度横道からでてきたスイとクリュウがこちらに気付くところだった。
 クリュウがついと目の前に飛んできて笑う。
「宿はとれた? とりあえず食料とかは買ってきたよ。あと包帯もきれてたから買っといたし」
「あら気が利くわね。宿はとれたわよ。明日は出発だし、もう宿にいってましょっか」
「うん、そうだね」
「セルピ」
「う、うにゃっ?」
 不意にスイに名前を呼ばれたセルピはおかしな返事をしながら彼を見上げた。
 彼は暫しセルピの瞳を見つめて…、
「大丈夫か?」
「にゃ…? なにが?」
 ―――屈託もなく首を傾げようとして――、わずかに失敗していた。
 痛みを感じる優しさに頬が熱くなって、笑顔がほんの少しだけ歪む…。ただ、それでも笑っていることに変わりはなかったが…。
「…別に、なにもなければいいんだが」
「スイは心配のしすぎよ。どうせお腹減ってるから元気ないんでしょ。ほら、宿にいきましょうよ」
 ピュラは少し雑にセルピの頭を撫でてから歩き出した。この人ごみの中では立ち止まっているのが迷惑だからだ。
「宿はどっちにあるのー?」
「こっから広場を抜けてちょっと行った先よ」
 瞬間、強い風がふいた。
 まるで幼子の背を押すかのように、風は広場へと旅人たちを導く。
「ひゃー、髪が乱れるわ…」
 風に踊る髪をおさえながら歩き出したピュラの背後で、セルピは風のふいてきた方を振り向いていた。
 しかしそこにも、同じような美しい、美しすぎる光景が広がるのみだ。
 今の彼女には、強すぎる景色…。
 ―――世界はこんなにも強く輝いているのに…。
「スイ、あんた髪の毛が逆立ってるわよ…」
「そうか」
「そうかじゃないのっ! 隣歩いてる身にもなりなさいよっ!」
 ピュラは手をのばしてぐしぐしと手荒にスイの髪をおろす。
「ほんっとになんでうちには手のかかる輩がこんなに大勢いるのかしら…! セルピ! なにやってるのよ、とっとと行くわよ!」
「う、うんっ…!」
 まるで風に誘われるようにしてセルピは駆け出した。
 そうだ、風は誘っていた。
 …幼子を、審判の場へと。
 最後の一歩を踏み出せないでいる彼女を後押しするかのように…。
 広場は、―――彼女にとって運命の時となる広場は、既に目の前にまで近付いてきていた―――。


 ***


 …広場にて、心臓がはちきれるかと思うくらいに鳴った。
 その光景は、小さな彼女にとって一生焼きついてはなれないものになったかもしれない。
 懐かしい空気。しかし嬉しくなるようなものではない。
 冷たい、冷たい、張り詰めた空気。
 北の果ての、研ぎ澄まされた刃のように冷徹なもの。
 心の奥底が理性に逆らって悲鳴をあげる。
 想像していたものよりも何十倍、何百倍…否、数で表せないようなほどの苦しみが、胸を襲った。
 こんなものに立ち向かおうとしていた自分がなんて愚かだったのだろうと思う反面、それでもと躍起になる自分もどこかに存在する。
 金属が鳴る無機質な音。なめらかで綺麗な布。澄んだ瞳。
 流れるような美しい髪。真っ白な馬。装飾された馬車。きちんと整えられた身なり…。
 知っている。忘れたこともない。忘れられるわけが、ない――。
 みるみる体温を失っていく体で、…彼女はそれらをじっと見つめていた―――。

 活気のある町の中で、その広場は静まっていた。
 否、普段だったら町の中でも一番活気付く場所であろう。
 石でできた造形物。全て古の産物であり、町の財産である。
 不思議な形をした石の塊は、それぞれ神や自然や精霊を現しているのだと現在に伝えられていた。
 開けたその地では今でも時折儀式が行われ、巫女が信託をうけるといわれている。
 しかし、今はその儀式も開かれていなければ、巫女がいるというわけでもなかった。
 だというのに人々が広場を避ける理由。

 …広場には、大きな馬車が止まっていた。
 そのまわりには幾十人もの従者。
 一目で貴族とわかる風貌―――しかもその中でもかなり位の高い成りをしている気品ある男たちがその場でたむろしている。
 従者たちは、片時も動かずにその耳で一言たりとも聞き逃すことのないように緊張を高めていた。
 町の住人たち―――しかもこの地の、貴族を強く憎む人々―――は、関わることを避けて広場にほとんど姿を現さず、通る者もはずれの方を無言で足早に通るだけだった。

 …こういう場所は、すぐに抜けてしまうのが得策だ。
 ピュラは無言で広場の離れたところを歩いた。
 クリュウも神妙な顔でスイの影に隠れながらついてくる。
 ―――セルピは、足元をふらつかせながら歩いていた。
 先ほどその光景をはじめて見た瞬間、体中の体温という体温が抜けていくのを彼女は感じた。
 心臓が揺すぶられて激昂する音が、小さな体中に響き渡る。
 なんとか足を前には進めているが―――。
 ここで叫んで、全てを終わらせてしまいたい。
 …いや、気付かれずに…そのまま通り過ぎてしまいたい…。
「…セルピ、どうしたの?」
 小声でピュラが聞いても、セルピはずっと貴族たちの方に視線をむけたまま、…なにひとつとして喋らない。
「あまりじろじろ見るんじゃないわよ、目をつけられたら終わりよ」
 …なにかいいかけようとしたが、喉が乾ききったかのようにかすれて、何も声がでなかった。

 そして、たむろしていた男の一人が、

 黒い髪をした男の、一人が――――、


 その横についていた、茶がかった銀の髪をした青年が…、


 ふと、こちらに気付いた。



 ガラスが頭の中で、砕けて散った。
 縫い付けられたかのように、体が動かない…。



 目が、あう。
 両者ともに、瞳がはじける。
 何も聞こえなくなって、お互いの姿以外の景色が、一気に沈んで見えなくなる―――。
 それはたったの一瞬だったというのに、彼らにとっては何分もの時が、動かずに静止していたように思えた。
「…あ………」
 青年の口から、声が漏れる―――。
 驚愕したような顔で、彼女を見つめている…。
「え?」
 ピュラが首を傾げてセルピを見下ろす。
 瞬間、ピュラはどきりとして次の言葉を発せなくなっていた。
 セルピの顔は、今までにない険しさを刻んで彼らを凝視している…。
 横の男が、呆然と呟いた。

 たったひとり、少女の名前を。



「…フィープ?」



 なにかが体を、瞬時に熱くさせていた。
 しかしそれは気持ちの良いものではない。体は熱いのに、背筋は凍る―――。
 血液の全てが逆流をはじめたかのように、違和感と恐怖感、嫌悪や緊張がめまぐるしく体中を駆け巡る。
 みるみる欠落していく五感。
 胸が痛い、痛い、痛い―――。

 …だめだ。
 今は、だめだ。
 今では、なにもいえない―――。

「………っ」
 セルピは瞬間、弾かれたように身を翻して走り出していた。
「え…ちょっ、セルピ!?」
 広場からすぐの横道に入ってしまったセルピを追いかけて、ピュラたちが慌てて走り出す。
「…フィープさま………フィープ様!!」
 後ろからの叫び声に、ピュラは一瞬だけ振り向いた。
 茶がかった銀色の髪をなびかせる青年が、走り出してきていた。
 しかしすぐにまたその後ろから声がとぶ。
 黒髪の中年の男だ。声も太く、強い。
「イシュト! 止まるんだ!」
「しかし…!」
「いい、今ここで騒ぎをおこすわけにはいかないだろう」
「……」
 セルピを追いかけながら広場から離れるにつれて、後ろから追いかけてくる気配は消えていく…。
 だというのに彼女の走りは体中の体力が果てるまで止まらないのではないかと思うほどにその速さを緩めない。
 なにも考えられなかった。今の広場での出来事、彼女の表情、そして今この場を走っている理由さえも…。
 とにかく今はセルピを見失わないように走るしかない。
 …速さは見かけ以上に早く、裏道を走って曲がりに曲がり…、方向感覚が失せるまで走り続ける。
 随分走った気がした。一体何処まできたのだろうか―――。
「セルピっ! 待ちなさい!」
 ピュラがなんとか叫ぶと、……セルピはやっと、止まった。
 裏道を随分走ってきて…あたりは狭い石の壁に囲まれた細い道になっている。
 突然前触れもなく走ったために、全員が暫く息を落ち着ける時間を必要としていた。
 そしてやっと動悸が収まってくると、ピュラは話を切り出す。
「ちょ、あんたあれはどういう…―――」
 …しかし膝に手をあてて言いかけて、…顔をあげた瞬間、彼女は次の言葉を見失っていた。
 痛々しさすら感じる、その後姿…。
 セルピは振り返ることも出来ずに…、俯いたまま、だ…。
 その後姿は小さく、…本当に押しつぶされてしまいそうなくらいに小さく、頼りなく佇んでいる…。

「…ごめん…なさい……」

 かろうじて、そんな声がした。
 涙声でもない、まるで囁くような声は、本当に彼女の声なのかとさえ疑わせる。
「…あなた……、」
 ピュラが荒れる呼吸を落ち着けながらセルピの前まで歩いていくと、…彼女は今まで見たこともないようなくらいに辛そうな顔をしたまま、ピュラと視線を重ねられないでいた。
 ひきしばられた口元。色が歪んだ瞳。光を湛えていない、瞳。
 思わずぞっとするくらいの、影を湛えた表情…。
 それはいつもの明るく元気な彼女ではない、世の暗を全て知り尽くした、…知り尽くしてしまったような、14歳の少女の姿。
 …ピュラは、一息おいてから出来るだけ静かな声で訪ねた。
「…あの人は?」
 セルピの顔が、歪む…。
「………ボク…の、……その…おとう…さ…」
「父親なのね?」
 セルピは唇を噛み締めて頷いた。
 いつも大きく開かれている朝の泉のような色の瞳はけぶり、伏せられながら―――、

 彼女は、そこにいるものにやっと聞こえる声で、続きを紡いだ。


「―――ボク、家出してきたんだ」


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