-Bitter Orange,in the Blaze-
上・灰色の時代 三.秋の風を聞きながら

033.流転していくもの



 一杯の潮風を受けて船は順調に進んでいた。
 空は目が痛くなるほどの青に広がり、太陽が強く降り注ぐ。
 時は秋の足音がはっきりと聞こえてくる頃―――。
 冬の寒さを逃れる為に大陸から大陸へと渡っていく鳥たちが、興味深そうに船の周りを飛び、唄うように何度か鳴き声をあげては去っていった。
 ―――秋の、空気も湿度も少しばかり落ちた風は心地良い。
 鼻をくすぐる潮の香り、きらきらと揺らめく水面の小さな粒たち、その全てが旅人たちの心に活気を与える。
「ひゃー、眩しいわね」
 部屋に荷物を置いた後、ピュラはセルピに付き合って甲板に出ていた。
 さんさんと光を浴びせる太陽に目を細め、そのガーネットピアスを強く煌かせる。
 海の強い風に髪が大きくなびき、ピュラは乱れそうになった髪を押さえて辺りを見回した。
「…よかった、いないみたいね」
 紫の髪の男がどこにもいないことを確認すると、はあ、と軽く吐息をつく。
 どうも彼とは馬があわないのだ。
 一緒にいるとなんだか胸の辺りがもやもやと曇り、思わずいらいらしてしまう。
 きっと、世界は広いのだからそんな人がいるのだとピュラは割り切っていた。
 …割り切れずには、いられなかった。
「わー、海がきらきらしてるっ!」
「セルピ、走ると転がって落ちてサメのエサよ」
「大丈夫だよぉー」
 セルピはくすぐったそうに笑って船の縁から下の深い蒼を覗き込んだ。
 白い泡を縁に走らせながら進む船の思っていた以上の速さにその瞳の色を輝かせ、そして海の中の小さな命の群れに心が踊る。
「すごいすごいっ! ピュラ、お魚さんがいるよーっ!」
「あんな小さいの、食べてもおいしくないわよ」
「食べるんじゃないよ〜」
「焼くよりはお刺身の方がよさそうね」
「にゃ〜〜〜」
 ぶんぶんと首を振るセルピの頭をピュラは軽く撫でてやって、遠い水平線に目を細めた。
「はー、なんであんな奴とこんなところで鉢合わせになっちゃったのかしら」
「それは運命の女神が巡りあわせてくれたからさ!」
 後ろから声がすると、ピュラは即座に言い放った。
「黙って」
「へいへい」
 やっぱりでてきてしまった、とピュラは振り向かず、可愛らしく鼻を鳴らす。
 本当はこの男がでてくる前にさっさと帰りたかったのだが、こうなってしまえば後の祭りだ。
 その姿を目に留めて首をかしげたセルピが尋ねた。
「あ、お兄ちゃんだ。お兄ちゃん、お名前は?」
「俺? 俺はフェイズ・イスタルカさ。嬢ちゃんは?」
「ボクはセルピだよ!」
「へえ、可愛い名前だな。そうだ、この機会にお茶でも…」
「セルピ、行くわよ」
「ふぇっ?」
 いらつく人間とは関わらないのが一番だ。ピュラはセルピの首根っこを持ってすたすたと歩き出す。
 …が。
「えー、せっかくだからフェイズお兄ちゃんとも遊ぼうよー」
 セルピはピュラの服を引っ張り返して口を尖らせた。
「よしよし、嬢ちゃんは話がわかるなー。ほーらピュラ、たまにはいーじゃねーか」
 くすぐるような風にその服をはためかせ、フェイズは笑う。
「ね、ピュラー、お兄ちゃんもああいってるし」
 ピュラの表情は逆に、暗い表情になっていく。

 …数分後、ピュラは見事にフェイズとセルピと共に船のオープンカフェのテーブルに座っているのだった。


 ***


 船の一角に、そのカフェはあった。
 海の風がそのまま感じられるように、壁など一切無いオープンカフェだ。
 むしろ、甲板の上に机を並べてカフェにした、といった方が正しいかもしれない。
 純粋な青の空を見上げ、遠い水平線に目を細め、ざわめく風を感じられるそのカフェには既に賑やかな談笑たちが華やいでいた。
 ―――が、そんなさわやかで広大な雰囲気も、本人がそれを感じられなければそれまでの話となるのだが……。
 まるで酒でも飲むかのように柑橘のジュースを飲み干し、だん、とテーブルにつくピュラの顔は文字通り最悪だった。
「へー、ディスリエに行くのか。あそこは宝石が多くとれるからな、安く色々買えるけどまがい物も多いから気をつけた方がいーぞ」
 横の席では優雅な物腰でフェイズがグラスに口をつける。
 ピュラにとってその余裕の態度は神経を逆撫でするものだったが。
「あのねぇ、観光に行くわけじゃないのよ」
「へえー、観光でもないのにあんなトコ行くのかー。田舎だし開拓されてないから旅もしづらい、そんなところにわざわざいくなんて大変だなーピュラたちも」
 …その上、洞察力も並ではないことが更にピュラのいらつきに拍車をかけていた。
 ピュラの顔がまた一つテンションを落とすのを見て、フェイズは不敵に笑って下からピュラの顔を覗き込む。
「…もしや、なにやらわけがあるのだな? それならこのフェイズ様が相談にのってやってもいいが?」
「結構」
「つれないなあ」
「お兄ちゃんはどこにいくのー?」
「俺? そうだなー、風の吹くままに未知なる土地を求めて」
「単に適当に歩いてるだけでしょ」
「あっはっはー、そうともいうなあ」
 全くダメージなしという具合にフェイズは頭をかいて笑った。
「でもなー、こうしてまたピュラたちに巡り合えたんだし、ここは一つ」
「連れなら手のかかるのが沢山いるから間にあってるわ」
「ふにゃー?」
「うーむ、敵は手強いようだ」
「あら、今更気付いたの?」
 嫌味ったらしく言い放ってやって、ピュラは飲み物の追加を頼んだ。
「だが俺も同じく手強いんだぞー?」
「執念深い男は嫌われるわよ」
「誰に嫌われたとしても、お前にさえ気に入ってもらえれば」
「嫌い」
「へいへい」
 セルピはというと、ピュラとフェイズの間で刃の形をした言葉のやりとりが繰り返されるのをじっと見ていた。
 その橙と紫の目の間にある異様な空気は、既に二人だけの世界を作り出していたので、ある。
 そう、まるで他人とは思えない、なにか違う空気―――。
 ずっとずっと前から知り合っていた親友のような、そんな流れ―――。
「ねー、ピュラ、フェイズお兄ちゃん」
「なに?」
 セルピはぱちぱちと何度か目をしばたかせ、思ったことをそのまま言った。
「ピュラとフェイズお兄ちゃんって、昔からのお友達なの?」
 するとほんの一瞬、フェイズの瞳に今までになかったものが浮かび上がり―――、

 ………。

 ……。

 ピュラの顔が、間の抜けたそれになった。
 そして、机を叩いて立ち上がるのも時間の問題だ。
「ちょおっと待ちなさいよ! なんでこんなスカポンタンな女好きと記憶を共有しなきゃならないわけ!?」
 対してフェイズは笑いながら手を振ってみせる。
「あっはっは、ありうるかもなー」
「冗談じゃないわよっ! 大体私はこんなのに会った覚えなんて微塵もないわッ!」
「前世とか、ありうるんじゃねーの?」
「私はそんな非科学的なものは信じないのよ!」
「でもな、人の頭の中はかなり科学的に解明できてないことが沢山あるんだぞ?」
 けらけら笑いながらフェイズは椅子の背にもたれた。
 その紫の瞳は見ていると吸い込まれそうになるほどに純粋で、深く―――、

 危険な、色。

「例えば、どんなささいなことだって脳は記憶している、人はそれを“思い出せないだけ”なんじゃねーかっていう学者もいるくらいでさ」

 ―――ざあっ!!

 波が揺れ、しぶきをあげて唸った。
 潮を乗せた風が何かに急ぐように駆けてゆく。
「…ま、俺にとっちゃどーでもいーがな。うーむ、このカフェはいい所だなぁ。さすがパンフで盛大に広告していただけはある」
 フェイズはうんうんと頷いて、半分ほど残った飲み物にまた口をつけた。
「…やっぱり嫌な奴だわ…」
 横で完全に消化不良を起こしているピュラが頭をかかえる。
「ピュラ、どうしたの?」
「あーもう帰るわ! こんなのと付き合ってたら気が狂っちゃうわよっ!」
 そう言って席を立った。
「おっと、もう行くのか?」
「私には私の事情ってものがあるのよ! さよなら!」
 叫ぶなり、今度こそ誰にも止められぬような炎をめらめらと燃しながらセルピを引きずって去っていった。
 フェイズやセルピが何か言った気もしたが、既に耳には入らない。
 願わくば、もう彼とは二度と会いたくはなかった。
 ピュラは船上を歩きながらぶつぶつと愚痴を零す。
「あーイライラするわ……こうなったらクリュウ辺りに八つ当たりでもして息抜きしなきゃ…」
 …全ての苛立ちは、理不尽にも哀れな妖精へと向けられつつあった。


 ***


「あれ、ボクたちの部屋はここだよ?」
「スイたちの部屋に行くわ」
「ふぇ? どーして?」
「いいから黙ってついてきなさいっ!」
 船内にて、ピュラは隣の部屋の番号を確かめてから音も荒くノックした。
「スイ、入るわよ!」
「ああ」
 ――がちゃっっ!!
 ピュラは荒々しく扉を開き――――、

「…なにか用か?」
 向かいにあるベットの上で座って、なにやら手作業をしているスイ。
 その姿に何か違和感があると思えば―――、
 ――――ばたんっっ!!!
 更に荒々しい勢いで扉を閉めた。

「ピュラ、なんで閉めるの?」
 …ドアノブに手をかけたまま、ピュラは暫く制止し―――、
 この世の終わりのような顔で軋む音を鳴らせながら振り向いた。
「…見てはいけないものを見てしまったわ……」
 肢体が凍ってしまったかのようにかくかくと不可思議な動きで暖かみを感じる樹の扉を見つめ―――、
 ―――かちゃん。
 次の瞬間、中から扉が開いた。
 …固まるピュラの目の前に、スイが現れる。
「…どうかしたのか?」
 本人は全く変わりないようで、むしろそんなピュラを不思議がっているようで。
 …後ろでは、クリュウが笑みをひきつらせていた。
 ピュラは、ぱくぱくと何度か口を動かした後に、やっと言葉を発した。
「す、スイ……あなた、今なにをやって…」
 すると彼は、なんだといわんばかりに簡単に言ってのけた。
「裁縫だ」
 ……普段ぼさぼさにしたままになっている髪は、きちんと三角巾でまとめられていたのだった。
 ピュラは、本気で眩暈を覚えた。
「スイ、おさいほうしてたの?」
「マントがほつれたからな」
 そう言ってすたすたと歩いてベットに腰掛けると、また針を手にとって縫い物を再開する。
「ちょ、だからってなんで三角巾…」
「前髪がうっとうしいからだ」
 それ以上もそれ以下もなかった。
 確かにあれだけ料理や掃除が出来たのだ、裁縫が出来ておかしくはないのだが。
 …それ以前の、何かが間違っているような気がしてならないピュラだった。
 これにはクリュウも眩暈を覚えているらしく、乾いた笑いを浮かべている。
「あ、あははは…ところでピュラたちはなにしに来たの?」
「…あんたたちに八つ当たりに来たけど気が抜けたからもういいわ…」
「なにそれ…」
 クリュウは情けない顔で肩を落とす。
「ねーねー、あとでスイもクリュウも外に遊びにいこうよっ! とっても綺麗だったよー?」
 不意にセルピが尋ねると、クリュウは少々気まずそうな顔をした。
「え……、いやあの…」
「なによ? なにか不都合でもあるの?」
 口ごもるクリュウにピュラが問いかけるが、彼は口ごもるばかりだ。
「あー…その…」
 そうしてクリュウは言葉を濁らせたままスイの方に目を向け―――

 刹那、それぞれの瞳がはじけた。
「伏せてっ!!」
 ピュラが無理矢理セルピの腕を引っ張って床に伏せる。
 次の瞬間、船を大きな揺れと爆音が襲った。
「わわわっ!」
 クリュウが慌ててスイの肩に飛んでいく。
 揺れ自体はすぐに収まったものの、その瞬間に船の中は騒然とする―――
「ななな、なにがあったのよ…」
 ピュラは注意深く立ち上がって、窓から外を見た。
 そしてその顔がひきつるのに、そう時間はかからなかった。
「……っ! なんてこと…!」
「え…なんだった?」
 こめかみに手をやるピュラの横にクリュウが飛んでいって、外を見て――、
「………うそっ」
「ふぇ? なにがどうしたの?」
 ピュラは険しい顔で窓から目を離す。
「セルピはこの部屋で待ってなさい。動くんじゃないわよ、いいわね?」
「にゃっ?」
 言い終わる頃には、既に駆け出していた。
「ピュラ! 一体どこに…」
「決まってるでしょ! 甲板よ!」
「え、えええええ!?」
 クリュウが全身を泡立たせて叫ぶ。
「セルピをお願いねっ!」
 ピュラは扉を突き破るようにして駆け出していった。

「突然どうしたんだろう…?」
 セルピが首を傾げると、丁度窓から外を見ていたスイが振り向く。
 …静かに、呟いた。
「…海賊船に目をつけられたらしい」
「………かいぞくせん?」
 まるで新しい言葉を聞いたかのようにセルピは繰り返す。
「ま、まあ自衛団が乗ってるだろうから大丈夫だとは思うけれど…」
 クリュウはもう一度窓の外を覗いた。
 すぐ近いところに、この船よりは一回り小さい船が重々しく佇んでいた。

 ―――そして一気に、船の中は何かが弾けたように騒ぎ始めた。


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