-Bitter Orange,in the Blaze-
上・灰色の時代 二.荒野の果てに

023.忍び寄る夜の影



「えっと、お部屋はピュラさんとセルピさんで一つ、スイさんとクリュウさんで一つですね?」
 クリアナがそう言って案内してくれたのは、最上階である4階の綺麗な部屋だった。
「ここが一番綺麗で広い部屋なものですから……」
 クリアナは笑って部屋の扉を開く。
 彩度の低い緋色のカーペットに、狐色のベットが静かに佇んでいる、落ち着いた部屋だ。
「ありがとう。気を使わせて悪かったわね」
「いえ、お気になさらないで下さい」
 ピュラとスイの部屋は、丁度隣に位置する。
 何かあれば、すぐに対応できる位置だった。
「あなたの部屋は何階なの?」
「2階です。少し淋しいけれど、でも大丈夫です。今日はとっても楽しかったですから」
「そう…」
「それでは、明日も早いのでしょう? どうぞお休みください」
「うん、ありがとう!」
 クリアナの微笑みにセルピが満面の笑顔で返す。
「はい。それではおやすみなさい」
「おやすみなさーいっ」
 セルピはぺこりとお辞儀をして先に部屋に入っていった。
「それでは私も下にいきますね」
「ええ」
 クリアナは静かに微笑みかけた。
 …その瞬間、ピュラは思わず彼女の青い瞳に飲み込まれる―――。
 まるで、何処までも何処までも、永久に続くような青だ。
 刹那的に気が遠くなり、体中に痺れにも似た感触が電流のように流れる。
 そしてその笑みに、体が動かなくなりそうな…―――、
「…どうかなされたんですか?」
「……え、いえ大丈夫よ。ここまで長かったからね。今日はゆっくり休ませてもらうわ」
「はい」
 では、とクリアナは身を翻して通路を歩き、階段を降りていった。
 ふわっと蜜色の長い髪が揺れる。
「………」
 扉の前で立ち止まったままのピュラにセルピが不思議そうな顔をして覗き込んできた。
「ピュラ、どうしたの?」
「…いえ、なんでもないわ」
 ピュラはふいと笑って扉を閉るなり、ベットに身を投げ出した。
 柔らかな優しいベットだ。その枕にきう、と顔をうずめる。
「…まさか気のせいよね」
「ピュラ?」
「もう寝るわ。灯り消すわよ」
 そう言ってむくりと起きあがり照明を消しにかかる。
「ピュラ、大丈夫?」
「なにがよ」
「なんかそわそわしてる……お手洗い行きたいの?」
 どごっ。
「もう寝なさいっ!」
「うにゅう〜」
 げんこつを頂いたセルピは頭を抑えながらベットに潜りこんだ。
「全く……」
 最後のランプを消して、ピュラもベットに潜りこむ。
 嫌な予感がしたことなど気のせいだと思って、胸の奥に仕舞いこんだ。
 唯、それは沈黙が落ちるごとにますます深まってピュラの思考に浸透してくる―――…。
 自分らしくない弱気な思考をピュラは無理矢理押し込めて、…暫く瞳を閉じたまま起きていた。
 その夜に忍び寄る、何かを感じながら―――。


 ***


「……ねえ、スイ」
 クリュウはいくらばかりか小さな声で呟いた。
 スイは何も言わずにベットに腰掛けたまま、クリュウに視線を向ける。
 翡翠の瞳と、海の瞳が、交わる。
「……考えたくないんだけど、」
 クリュウは一度そこで切った。その頃ピュラたちの部屋の明かりは既に消えていたが、スイたちの部屋ではまだ煌々とランプが照っている。
「…この家、なにかおかしい気がするんだ…」
「ああ。厨房に入った時に、中を見て廻ったんだが…――、」
 スイが片時も剣を手放さなかったのを、クリュウは見逃していなかった。
 マントと手袋を外して料理をしていたときでさえ、腰の剣は外していなかったのである。
 ――彼も、この何か違う気配に気付いていたのだ。
「でも、そこまで嫌な気配じゃないんだよね…」
 夜になって、その気が高まってきているのをクリュウは感じ取っていた。
 まるで夢のような、ふんわりとした…――少し湿ったような、そんな空気―――。
「…春の空気に似ている」
 スイの呟きに、クリュウの耳がぴん、と跳ねた。
「そうだ、春の…初めくらいの空気だ…」
 強い風と湿った空気は、雨季の到来を告げる。
 日に日に雲が押し寄せ…、その地に命の雨を降らせる―――。
「だが今は乾季だ」
 スイの瞳が鋭く窓の外の闇を貫いた。
 空には雲の一つもない。乾季特有の澄み渡った星月夜が広がっている。
「クリアナも、何も嫌な波動を感じないんだ。でも、なんていうかな、あの子……―――、」
 すい、とクリュウは飛んでランプの下に腰掛けた。
 煌きがきらきらと降り注ぎ、彼の羽根を七色に染めあげる。
「夢にでてくる人、みたいな感じなんだ…。現実感がない、みたいな……」
 クリュウの言いたいことも、スイにはなんとなく分かった。
 そこにいるかと思えば消えていて、また突然脇から現れる。
 元からいなかったといわれればそうかもしれないと思うほど、その存在は薄く儚い。
 だから、最初この屋敷に彼女が住んでいることなど分からなかったのだ。
 …しかし、彼女の言っていることはきちんと筋は通っている。
 しかも嫌な雰囲気などこれっぽっちも感じられない。
 その口調や性格、仕草などを見ていても―――、心優しい少女にしか、見えない。
 その夢のような雰囲気を除いては―――。
「思い過ごしだといいんだけど……」
 クリュウは俯いて呟く。
 こんな辺境でひっそり暮らす少女にあらぬ疑いをかけることなど、失礼などというもので済まされることではないとは…分かっている。
 しかし、どうも胸騒ぎが隠せないのだ。
 まるで…――、夢の中に迷い込んで、そこから一生抜け出せなくなったかのような―――。
「一つ、不可解な点がある」
「え?」
 スイは相変わらず窓の外に視線を置いたまま、…剣をその腕に抱いて言葉を紡ぐ。
「クリアナが一人で住んでいるなら、確かに食料が大量に必要だろうが…、もし長期間ここにいるなら保存食が多くを占めるはずだ」
「うん」
「なのに、食料庫をあけたら…、新鮮な食材ばかりが揃っていた」
 その時、初めてクリュウは悪寒を感じた。
 スイの瞳が更に深みを増してゆく―――。
「まるで俺たちが来ることがわかっていたように」
 ……―――静寂が、落ちた。
 静かな静かな、何の音もしない、なのにどこかで張り詰めた空気―――。
「……食事に何かしこまれてた?」
「それはない。俺もとりあえず調べたつもりだし、もしそうなら俺に料理をまかせたりはしない」
「…まさか、それを確かめる為に料理を買って出たの?」
「……ああ」
 クリュウは相変わらずのスイの頭の回転の良さに舌を巻く。
 何も考えていないかと思えば、彼は全てを見通して行動しているのだ。
 …唯、彼が料理を得意とすることは、まだよく理解出来なかったのであるが。
 スイもクリュウも、寝ようとはしなかった。
 唯、その静寂の中に身を置き、影と一体になってその気配を探る。
 その屋敷に流れるのは、少し湿った空気とふんわりとした空気、
 夢のような雰囲気、

 ―――雨季を知らせる、春の空。


 ***


 クリアナは優しい表情が崩れることもなく、自室にたどり着いた。
 今日は本当に楽しかった、…あんな素敵な旅人たちに出会えたのだから―――。
「明日には出発されてしまうんですよね…」
 そう思うと少し寂しさもさしてくる。彼女に彼らを引き止めることは出来ない。彼らは自由に生きるからこそあんなに輝いているのだから。
 暖かい言葉に優しい笑顔、打ち解けた空気に包まれて…――。
「…仕方ないわ。私は貴族だもの…」
 もし平民に生まれていればと思う。
 確かに食料では困るだろう。子供の時から働くことを命じられると聞くし、その生活は困難を極めるに違いない。
 しかし、そんな黄昏を生きていたものにはその強さがあるのだ。
 自分にもそんな強さがあれば、と思う。
「……お爺様、まだ帰ってこないのかな……」
 部屋の中で、ぽつりと呟いた。

 ―――トクン、トクン、

 きっと町に出て行ったのだろうから、もうすぐ帰ってくるはずだ。
 彼女はずっとずっと、ここで待っていたのだから。

 ずっとずっと、

 ―――ずっと、


 ――――――ずっと、


 ―――トクン、トクン、トクン、


 不意にクリアナは、湿った風を感じた。
 乾ききった空気を癒す、命の風、強い風。
 心の中に、それは渦のように流れ込んでくる―――
「……―――お爺様、一人は淋しいよ……」
 もうすぐ帰ってくるはずなのに。
 帰ってくる、はずなのに。


 ―――帰って、くるの?


 ―――トクン、トク…トク、トク、トク、トク、


「あ…れ……?」
 頭の中で突然記憶がフラッシュバックする。
 衝撃が電流のように体の中を突き抜けた。
 思考の中身が弾けたようにのた打ち回り、彼女は思わずその蜜色の髪で覆われた頭を両手で掴む。


 ―――トクトクトクトクトクトクトクトク―――


 春の雨季を告げる、強い風。
 雨。雨。雨。
 殴るような、雨の音。

『いい子にして待っているんだ。必ず戻るから』

 雷の、おと。

 とおざかる、うしろすがた。

 まどのそとの、くろいかげ。

 かげ。

 きんぞくの、ひとのつくった、かげ。

 ひと。

 このせかいの。


 これが、



『―――が……の……ムだ』



『これが……のシ……だ』





『これがこの世のシステムだ』



 ―――トクトクトクドクドクドクドクドク


「………なに……?」
 自分が壊れてしまいそうなほどの思念の渦が流れこみ、クリアナはふらつき思わず床に倒れこむ。
 頭が割れてしまいそうなほどの頭痛がする。
「い……や………ぁ」
 頭を両手で掴んだまま降るが、蜜色の美しい髪が宙を舞うだけで、…更に心が砕かれそうになる衝撃に叩きつけられる。
 ぼろぼろと瞳から涙が溢れた。
「…どう…して……?」
 辺りでなにかがはじける音。
 その衝撃に、全ての部屋の明かりが―――消える。



 ―――ドクンッ!!!



「どうして……? なんで? なんで帰ってこないの……?」



「どうして………っ!!」

 髪を振り乱して、吼える。
 そこにいるのは既に彼女ではなかった。
 優しく笑う彼女では、なかった。
 …唯呆然と哀しむ、涙を流しながら哀しむ蜜色の髪の少女―――。
 ゆらりと立ち上がって、窓の外に視線を向けて。
 瞳からは感情のない涙が止め処もなく流れ続け―――
 強い風にがたがたと窓が鳴り、外は圧雲に覆われ、雨が殴るように叩きつける。
 雨季の到来を知らせる、嵐だ。

「…なんで…どうして? どうして戻ってきてくれないの…? ずっと…ずっと待ってるのに……」


 ――ピシャァァァンッッッッ!!!


 雷鳴の中、屋敷は遂に永久に続く悪夢へと飲み込まれていく―――――。


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