-Bitter Orange,in the Blaze-
上・灰色の時代 一.フローリエムの旅

012.Dream a Dream



 まるで紅茶に放り込まれた角砂糖のように。
 ぽろぽろと、溶けてゆく。
 ゆっくりと、砕けてゆく。
 そして最後、さらりと崩れて――消える。
 ――さて、砂糖は何処へ行ったのだろうか?

 夢の中で、意識は同じように溶けてゆき、あらゆる方向へと流れ出す。
 とどまることもなく、ゆらぎ、けぶり、またゆるやかに流れてゆく。
 体が眠りに入ろうとも、脳の深くが眠ることはない。
 だから、忘れようとした記憶も、思い出したくない記憶も、抑える自我をなくした思考は、勝手にそれらをぶちまけてゆく。

 ――それが、夢の原理。

 しかし夢は時に思い出させる。
 忘れかけていた大切なもの、自我が忘れた人生の何処かのささいな言葉の一つ一つ、
 夢をみることは、人が大切な何かを忘れないようにと自然がプログラムした、――そんなものなのかもしれない。


 ***


 橙色。
 どこまでも続く、まぶしく、まばゆい、橙色。
 黒よりも深い蒼の瞳が、そんな橙色の夕日に照らされている。
 その後ろから、石畳をそっと歩いてくる一つの影――。
「スイ!」
 影はぽんっ、と肩を軽く叩くが――、彼は夕日に目を向けたまま。
 そんな様子に少女は頬を膨らませた。
「なによ、ちょっとは驚いてくれたっていいじゃない」
 彼の隣の石畳に、ぺたんと腰を下ろすと――若草色の長い髪がかすかに揺れる。
「……で、こんなところで何してるのよ」
「夕日を見てる」
「まんまね……」
 少女は呆れたように笑って、夕日に目を細めた。
 そこは街の一角、そして街が見渡せる高台。
 夕刻の時間、全ては橙色に染まりゆく。
 影は深く落ち、まるで町は燃えているかのように照らされて揺らめいていた。
 少女は彼の顔をじっと見つめている。
 たっぷりと時間をあけて、――やっと彼も少女に顔を向けた。
「なんだ?」
「あんたの顔の真似よ。こーんなむっつり」
 そう言って少女は自分の顔を指差した。
「本当にあんたって顔に筋肉ついてるの?」
「……そうだな……」
 少女の若草色の長い髪も、橙色に照らされる。
 きらりきらり煌いて、わずかな風に流れてゆく。
「まったく……」
 彼女はぷい、と夕日の方を向いた。
 すねたようにも聞こえる、呆れが混じった声。
「――もし私がいなくなったら、どうするのよ。そしたら本当にあなた天涯孤独よ」
 ――彼は暫く彼女をぼんやり見た後……、小さく吐息を漏らす。
「……そうか」
「だからね、そんな根暗はやめなさいよ。人生一回だけなんだから、もうちょっと有意義に生きてもいいと思うわ」
「ああ」
「全く……」
 ――肩に、柔らかな感触。
 ――心地良い香り。
 ――眩しい夕日。
 ――透き通った言葉。
 ――胸に響く静かな調べ。
 軽くもたれかけてきた彼女は、そっと目を細める。
「綺麗ね」
「そうだな」
「この光景、燃えてるみたいって皆言うけど…、私はすごく好き。全部が橙色に染まって、あったかくて、――ね?」
「――ああ」
「ふふ、あなたもいつもそのくらい正直ならいいのにね」
 ――綺麗な言葉。
 ――ひとつ、またひとつ。
 ――夕日のように暖かく。
 ――全部全部、橙に染まって。
 ――赤でもなくて、黄でもなくて。
 ――静かに影が落ちてゆく。
 ――まるでそれは夢のように。
 ――すぐそばには少女の笑顔。
 ――やわらかな、きれいな笑顔。
 ――――まるでそれは、夢のように――。
 少女は、歌を歌っている。
 その綺麗な声で、言葉を乗せて。
 この橙色に染まる世界に向かって……。
「あなたはスイよ」
 たっぷりと温もりを含んだ、静かな声。
「私はずっとあなたのこと、スイって呼ぶからね? ……それがあなたの名前だもの」
「――ああ」
 やはり、少女は歌っている。
 いつまでも聞いていても飽きないような歌を。
 その喉で紡ぎ、唇に乗せている。
「負けないで」
 彼女の手が、彼の手を握り締めた。
 沈みゆく夕日に優しく照らされて、まるで祈るかのように……。
「負けないで、スイ」
「――そうだな……」
 ――柔らかな、記憶の断片。
 ――静かに静かに、過ぎてゆく――。
 ――歌は、ゆるやかに流れ出てゆく――。
 ――その歌の調べに合わせ、小さなリズムを指が刻んでゆく――。
 ――心臓が鳴る音も、
 ――こうして夕日が沈むことも、
 ――風に髪が揺れることも、
 ――生きていることも、
 ―――彼女が隣にいることさえも、
 ―――なにもかも、なにもかも、

 ―――当たり前のように思っていて、

 ―――それはあらゆる偶然が重なった奇跡だというのに、


 ――――奇跡だったと、いうのに――。


 ***


 溶けた砂糖は何処へいったのか。
 人の目から姿を消し、たった一つ、ほのかな味だけを残して……。
 深い深い、橙色の紅茶の中で、消えた砂糖は何処へ行くのか――。

 溶けた砂糖は、――記憶の彼方。

 わずかに香る、ほのかな甘さ。


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